たまにはきざなことを書いてみる

京都大学より今出川通りを西に進むと、鴨川と高野川の合流点に出る。高野川のほうを上流に進み、北大路通りを超え、北山通りに向かうというところで、川の西岸に見えるのが京都工芸繊維大学だ。
▼この大学にかつて一人の学生が通った。京都市出身の白井晟一は幼くして両親を亡くし親族に引き取られて進学、大学卒業の後ドイツに留学。ヤスパースに師事しつつ哲学と同時にゴシック建築を学び、帰国して建築家の道を歩む。
▼いま、京都工芸繊維大学の美術工芸資料館で白井の作品展が催されている。寡作ながらひとつひとつの建築物には白井の思想が精緻に埋め込まれていて、訪れる者を息の詰まるような対話へと引き込む。
▼その思想が結晶した一つの形である「原爆堂」は丸木夫妻による「原爆の図」に触発されて依頼なしに自ら設計を始め、結局計画のままで終わった作品。図面とともにその模型も展示されている。なるほど思索的な作品ではあるが、しかしその向こうにいったいどのようなものを見ればいいのか、僕にはわからなかった。この鎮魂の思いをどこ吹く風と、戦後の日本は原子力にまつわる施設を平和目的と称して作り続け、原爆、第五福竜丸に続く第三の被爆者を自らの手で生み出した。
▼白井は悲しみも怒りもしないと思う。幾何的な外形はそのような感情とは一線を画し、あくまで作品を通して原爆と関わった者としての白井の節度を感じる。「原爆堂計画」は核兵器への告発ではなく、唯一の被爆国である日本がこれから核に対してどのような姿勢で臨むのかの問題提起であるように思えた。現在の状況はそれに対する一つの答えであり、その答えも「原爆堂」は受け入れる気がする。そのとき、私たちの愚かさの象徴となった「原爆堂」を正視することは難しい。
▼好感を持ったのはむしろ、秋田県湯沢市にたつ旧雄勝町役場である。豪雪地帯の厳しさに配慮しつつ、間取りを広く取り明るい公共の場を目指した白井の温かさが伝わってくる。
▼なお、本展は8月11日まで。

>追記
原爆堂はモニュメントではなく、原発の建屋のデザインとして採用すべきである。
原発の建屋の設計に関して、たとえ設計者はその危険を十分知悉していたとしても、そこで働く人間、設計の後にメンテナンスする人間、それを動かしビジネスの中に組み込む人間がその緊張を共有することは難しい。
パソコンの稼働原理を知らなくてもパソコンは使えるが、原発の稼働原理を知らなければその危険を肌身をもって感じるのは難しく、その危機意識の欠落は原発を安全に動かすには致命的である。
だから、なんだかよくわからないけどこれは危険なものであり、細心の注意を払う必要があるというエートス原発関係者は身に着ける必要がある。そのための対策の一つとして、原子炉建屋のデザインを工夫するというのがある。日本人は唯一の被爆国という悲惨な歴史を持つ。核エネルギーとその歴史を結合することは不可能ではない。
原爆堂のあのある種きのこ雲を思わせるような外形は原子炉に対する直観的な危機意識を喚起するのに役立つ。加えて管理棟を離れて設置することになり、中心にそびえる原子炉建屋は危険なものなのだという意識は増幅される。こうして、不注意による人為的なミス、安全管理の不徹底といったことはかなりの程度改善されるはずである。
そしてあの不気味な外見はそれをビジネスに使おうとする人間にも、政治の具や金づるに使おうとする甘い認識を抑圧する効果が期待できそうである。
そして最後に原子炉建屋はこう問いかける。
「なぜここにこんなものがあるのか?」