同情ハ敵ダ

「無意識の植民地」という本がある。まだ読んでいないが言いたいことは分かる。
本土は地理的にも人口も経済も文化も強く、恵まれており、沖縄は劣っている。このために、本土が不利益になり沖縄に利益になることは決して行われないが、本土が利益になり沖縄が不利益になることはまま行われる。本土が本土の利益になることを行い、不利益になることを行わないのは当然である。問題は、本土と沖縄の関係において、本土には本土に利益になることを行う自由がより多くあり、沖縄には沖縄に利益になることを行う自由がより少なくしかないことである。これをして「無意識」と言っているのだろう。

力は、ある程度人口の反映であり、経済の反映であり、文化の反映である。より多くの人口を組織でき、より活発な経済力・資金力を有し、より複雑で体系的な文化を維持できるということが、その集団により強い発言力を持たせている。
力の弱いものは、力の強いものに対して、力で訴えることができない。だから、彼らは正義に訴える。強者の正義に訴える。この意味で、正義とは弱者のルサンチマンである。またこの意味で、強者は絶対に悪である。持てる力を持てるままにに行使するという、まさにその当然さの故に、強者は悪になるのである。

私は自虐的になれと言っているのではない。悪を肯定せよと言っている。強者は悪であることに開き直れと言っているのである。悪を肯定できないうちは、自らの力を正しく自覚していないか、あるいは、実は弱味があることを知っているのである。

本土が沖縄に米軍基地を押し付けているのは悪いことである。なぜなら米軍基地が本土にないことは本土の利益であり、沖縄にあることも本土の利益だからである。米軍基地は日本になければならないが、本土にはあってはならないという、絶妙な位置に沖縄はある。本土はこの有用な沖縄をただ利用しているだけである。

しかし、本土が沖縄に対して圧倒的な優位にある限り、この悪が是正されることは永遠にないであろう。そして、日本本土沈没ならずとも壊滅的な状況にでもならない限り、あるいは沖縄の地理的な特徴が極端な優位をもたらさない限り、この悪はほぼ確実に是正されないであろう。

本土に必要なのは、まず、沖縄は島国であり、本土とはことなる集団であり、異なる経済をもち、異なる文化を持ち、したがって本土の集団に属する人間よりも沖縄の集団に属する人間であることはより「他者」であることを認めることである。彼らは私たちとは違う。彼らは私たちではない。私たちの理屈はある程度しか彼らには通じないし、彼らの利害を私たちは肩代わりすることができない。

私が本当に強いのなら、同情は出来ない筈だ。

私ははっきり言う、沖縄の基地を本土に移設することは不可能である。その理屈は沖縄の人には理解不能であろう。だが、私たちにはよく理解できることである。私は基地移設の責任(立ち退きや公害)をとることはできない。たとえそれが一票に分散されていたとしても、できないだろう。私は無責任なことは言えない。基地は沖縄にあるしかない。その分、本土は沖縄の人の恨みを、そのルサンチマンをかぶらなければならない。強者とは居心地の悪いものだ。

本土は本土としてのみ、本土の利害においてのみ、沖縄の基地問題に取り組むしかない。それは沖縄の人のゴネる度合いに応じてである。支配者は、支配するのにてこずる分、やはり不利益を被る。その不利益を、他の不利益に応じてどの程度まで妥協することができるか、本土はこれしか考えられない。これは沖縄には理解できないことである。だが、それでいいのであり、それしか方法はない。
基地問題において、私と沖縄の人とは絶対に分かり合わないだろう。私が沖縄に住むようなことがあれば、別だが。
沖縄の人は、独立と支配とを天秤にかけたうえで、可能な限りゴネたらよろしいと思う。沖縄に基地はいらない、基地は本土に置け、と言い続け、実力を行使し、そのようにして

正義に

訴え続けるがよい。本土は困るが、困るだけ困らせておくことが沖縄の利益になるのだから仕方がないだろう。それができなくなる時が、すなわち、正義が負けるときなのだ。
もちろんまったく同じことが日本とアメリカに対しても言える。だから、日本は安保法案で徹底してアメリカにゴネたらよいのである。9条があるから派兵はしないとひたすら図々しくのさばり、アメリカの正義を、アメリカの良心を利用し尽くしたらいいのである。それが小国の生きる道である。