知性の正しい導き方

知的コンプレックスの起源

私は様々な知的コンプレックスをかかえた方々を見てきた。また、自身も重度の知的コンプレックスを患っていたし、今もなお苦しんでいる。そのなかで見えてきた光景について話したい。

「知る」ということは人間に大きな快感をもたらし、人間を依存させる。しかも、知ることはそれだけでよいことであると考えられ、その負の面はあまり考察されてこなかった。それは良くない。一般に、知るということは、快楽と引き換えに大きな害悪を伴うことがあり、そうした側面を無視したり美化したりするべきではない。それに、知ることに依存した人生はストレスフルになることがあり、こうした生きづらさが個人の中で解決できなければ、他人をまきこんでしまうこともある。

また、反対になぜ人間は「知ろうとしない」のかを考えるきっかけにもなる。知ろうとしないのは、それが有益だからであり、往々にして知ることに伴って生じる害悪を防ぐことができるからである。私たちはどういうときに耳をふさぎ、目をつぶるのか。また、そうするべきなのはどういうときだろうか。こうした問題の手がかりになることも期待したいと思う。

コンプレックスというのは多義的な言葉なので、私がここでどのような意図で使用するのかを書き留めておく。コンプレックスとは絡み合ったもののことで、特に、ある言葉に対して様々な連想や感情が絡み合っていることを指す。私はとりわけ、負の感情、つまり、自分を誇示したり(相手を軽蔑)、相手を憎んだり(自分が攻撃されていると感じる)、嫉妬したり(本来自分が勝っているべきなのに劣っている)することが混ざり合ったコンプレックスを念頭に置く。

コンプレックスが生じるのは、それが本質的に自他関係だからだ、という仮説を立てる。他人との関係の不安定性から生じる感情は、様々な行動をドライブする。絡み合いが生じるのは、他人との関係は単一のものではなく、同時に複数の感情や行動(動機)を共起するからである。
なお、秘密の共有や秘密の暴露は、いわゆる「ゲスさ」であるが、これはこの場では扱わないことにする。これらの負の側面は十分に理解されているからである。

知的コンプレックスの要因を、大きく以下のように分類してみよう。
・他人への優越感
・他人へのマウンティング
・他人への支配欲

これはそのまま、自分がされたことに置き換えることもできる。
・自罰、自分への厳しい倫理観、自己否定感
・マウンティングされたと感じる恐れ
・被支配感、自分が自分でなくなる



他人を信用せず、自分で考えようとする
これは、他人に対する優越感を得るためである。
自分で考えたことは、他人が考えたことよりも勝っている(自己肯定感)
自分で考えることそのものが、「自分で考えない」他人よりも勝っている

こうした自己肯定感の裏返しとして、自分の間違いを認めたがらない(だけでなく、むしろ、自分の間違いの原因を他人に帰す)
しかし、より問題なのは、他人を自分と同じものと考えることである。他人をよく理解しているという優越感は、他人が意に沿わない行動をとったときの説明の破綻を他人への非難に変えてしまう。

人間は本質的に自己中心的である。しかし、知識は本質的に公共的であり、他者との関係を基礎にしている。ここから、「知ること」についてのあらゆる矛盾が沸き起こってくるように思う。

徴兵制復活

これから日本のとるべき道は徴兵制の復活であるという話をする。

ただし、徴兵制の復活は周辺諸国(具体的には日本が戦争・占領をした国)への謝罪とトレードオフである。
すべての国家は軍隊を持つ。いや、軍隊に限らず、組織された暴力装置を持っている。学校で体育をし、一律に制度化された勉強をするのは、身体であれ、科学技術であれ、あるいは法制度や政治イデオロギーであれ、官僚・企業・学校組織の再生産等々の近代的制度に順応すること、それを組織する一員になることである。また、このように組織された集団が一律に協力して巨大な成果を生み出すとき、細かい分業によって統制された集団行動を行うとき、それを暴力装置と呼ぶ。それがどのように行使されるかは状況次第である。

国民国家はいつでも総力戦体制である。その形態が変わるだけである。その点で、学校も軍隊も暴力装置の一部としての性格は同じであると思う。徴兵制も、軍隊も、平和裏に行われれば学校と同等の社会維持装置として機能するだろう。
派生的な問題は、軍隊がホモソーシャルな空間になることである。今の社会では女性の徴兵を認めなければならないだろう。軍隊はキャリアトラックのひとつであり、その利用は両方の性に開かれているべきだろうから。
私は学校(中等教育以上)も軍隊も国民国家では同じように機能するのだろうと言いたい。学校が素晴らしいのと同じように軍隊も素晴らしいし、学校が醜悪であるのと同じように軍隊も醜悪である。

さて、国民国家は軍隊を持つし、現に日本も軍隊を「持って」はいるが、それを持っていないことにしているのは、軍隊を持つ(公的に認める、正当化する)ことがそのまま暴力的拡張主義あるいは暴力による短絡的な紛争「解決」を引き起こすだろうということに、周辺諸外国だけでなく多くの日本国民も同意している結果である。私たちは倫理的に未熟であり、このようなさるぐつわを噛ませておかなければなにをしでかすかわからないということを、70年前の歴史が物語っているのである。

この倫理的未熟のおかげで、日本はいまだに根本的な謝罪を免れている。それが、戦争犯罪自己批判できなかったことであり、とくに、昭和天皇を存続させたことである。
したがって、軍隊を「持つ」(公的に認める、正当化する)ためには、戦争に対する徹底的な自己批判憲法改正を含むレベルで行い、台湾、韓国、中国、東南アジア、そして米国(旧ソ連にはしなくていいと思う。不可侵条約を向こうが破ったので)に首脳あるいは国会決議のレベルで謝罪することが必要である。
しかし、これによって日本は学校とならぶ国民国家の組織化手段である軍隊を正当に手に入れることができる。

そのかわり、日本は暴力装置を倫理的に、国際法に則る形で、その直接的な行使を可能な限り避けるというしかたで、使うことができなければならないだろう。これができるか、あるいは、できるようになるだろうか。
アメリカに管理してもらっている現状では難しいと思う。そのような、暴力を管理する知恵の蓄積がないからである。この蓄積は、もしかすると実際に、内乱なり戦争なりを経験しなければ培えないものなのかもしれないが。
だが、いずれ日本は徴兵制を復活し、同時に周辺諸国に謝罪し(憲法のレベルで天皇制を放棄し)、そしてアメリカから独立することになるのではないだろうか。

同情ハ敵ダ

「無意識の植民地」という本がある。まだ読んでいないが言いたいことは分かる。
本土は地理的にも人口も経済も文化も強く、恵まれており、沖縄は劣っている。このために、本土が不利益になり沖縄に利益になることは決して行われないが、本土が利益になり沖縄が不利益になることはまま行われる。本土が本土の利益になることを行い、不利益になることを行わないのは当然である。問題は、本土と沖縄の関係において、本土には本土に利益になることを行う自由がより多くあり、沖縄には沖縄に利益になることを行う自由がより少なくしかないことである。これをして「無意識」と言っているのだろう。

力は、ある程度人口の反映であり、経済の反映であり、文化の反映である。より多くの人口を組織でき、より活発な経済力・資金力を有し、より複雑で体系的な文化を維持できるということが、その集団により強い発言力を持たせている。
力の弱いものは、力の強いものに対して、力で訴えることができない。だから、彼らは正義に訴える。強者の正義に訴える。この意味で、正義とは弱者のルサンチマンである。またこの意味で、強者は絶対に悪である。持てる力を持てるままにに行使するという、まさにその当然さの故に、強者は悪になるのである。

私は自虐的になれと言っているのではない。悪を肯定せよと言っている。強者は悪であることに開き直れと言っているのである。悪を肯定できないうちは、自らの力を正しく自覚していないか、あるいは、実は弱味があることを知っているのである。

本土が沖縄に米軍基地を押し付けているのは悪いことである。なぜなら米軍基地が本土にないことは本土の利益であり、沖縄にあることも本土の利益だからである。米軍基地は日本になければならないが、本土にはあってはならないという、絶妙な位置に沖縄はある。本土はこの有用な沖縄をただ利用しているだけである。

しかし、本土が沖縄に対して圧倒的な優位にある限り、この悪が是正されることは永遠にないであろう。そして、日本本土沈没ならずとも壊滅的な状況にでもならない限り、あるいは沖縄の地理的な特徴が極端な優位をもたらさない限り、この悪はほぼ確実に是正されないであろう。

本土に必要なのは、まず、沖縄は島国であり、本土とはことなる集団であり、異なる経済をもち、異なる文化を持ち、したがって本土の集団に属する人間よりも沖縄の集団に属する人間であることはより「他者」であることを認めることである。彼らは私たちとは違う。彼らは私たちではない。私たちの理屈はある程度しか彼らには通じないし、彼らの利害を私たちは肩代わりすることができない。

私が本当に強いのなら、同情は出来ない筈だ。

私ははっきり言う、沖縄の基地を本土に移設することは不可能である。その理屈は沖縄の人には理解不能であろう。だが、私たちにはよく理解できることである。私は基地移設の責任(立ち退きや公害)をとることはできない。たとえそれが一票に分散されていたとしても、できないだろう。私は無責任なことは言えない。基地は沖縄にあるしかない。その分、本土は沖縄の人の恨みを、そのルサンチマンをかぶらなければならない。強者とは居心地の悪いものだ。

本土は本土としてのみ、本土の利害においてのみ、沖縄の基地問題に取り組むしかない。それは沖縄の人のゴネる度合いに応じてである。支配者は、支配するのにてこずる分、やはり不利益を被る。その不利益を、他の不利益に応じてどの程度まで妥協することができるか、本土はこれしか考えられない。これは沖縄には理解できないことである。だが、それでいいのであり、それしか方法はない。
基地問題において、私と沖縄の人とは絶対に分かり合わないだろう。私が沖縄に住むようなことがあれば、別だが。
沖縄の人は、独立と支配とを天秤にかけたうえで、可能な限りゴネたらよろしいと思う。沖縄に基地はいらない、基地は本土に置け、と言い続け、実力を行使し、そのようにして

正義に

訴え続けるがよい。本土は困るが、困るだけ困らせておくことが沖縄の利益になるのだから仕方がないだろう。それができなくなる時が、すなわち、正義が負けるときなのだ。
もちろんまったく同じことが日本とアメリカに対しても言える。だから、日本は安保法案で徹底してアメリカにゴネたらよいのである。9条があるから派兵はしないとひたすら図々しくのさばり、アメリカの正義を、アメリカの良心を利用し尽くしたらいいのである。それが小国の生きる道である。

漸進

一億総女性社会を実現しよう!

内閣改造、「1億総女性社会」担当大臣を新設

虚構新聞によれば、「安倍首相は来月に行う内閣改造で、看板政策とする「1億総活躍社会」と「女性が輝く社会」を集約し、新たに「1億総女性社会」担当相を置く方針を固めた。」
われわれはこの決定を断固支持する!

・性の自己決定の実現
男性ジェンダーは性ホルモンによって選択できる。自らの望む性を自己実現できる。
抑圧されていた女性性欲が解放され、性文化の多様化と発展が期待できる。
性的マイノリティ問題が解消され、性器の結合に限られない、多様なセックスが実現される。

・出産・育児負担の平等化
子どもを産むなら誰もが出産・育児を経験する。
誰でも好きな人との間で子どもをつくることができる。
出産の前に結婚する必要がない。(ポリアモリー
精子提供の同意が得られれば、経済的に余裕があるときにいつでも自らの意志で出産が可能。

経済振興
寿退職がなくなり、全国民の雇用が実現され、生産性が圧倒的に増大する。
育児産業は確実に拡大する。また、肉体労働を軽減するためのロボット産業も拡大することが予想される。

少子化問題の解決
全員が出産能力があるので、少子化問題は直ちに解決する。
望まない妊娠をしなくて済み、中絶問題も解決できる。

・痴漢・強姦・売春問題の撲滅
男性性欲や身体能力の不平等がこうした犯罪の温床であった。総女性社会により性犯罪の基盤が根絶される。

・男性中心社会の克服
ほとんどの文化では男性が優位であり、有力な賞の多くを男性が受賞しており、政治家や著名人も男性が多い。これは男性に出産・育児負担がなかったためであり、女性が奴隷的に搾取された結果である。全員が平等に文化の担い手となることにより、より自由で活発な文化を創造できる。

・歴史の終わり
フェミニズム史観によれば、全ての歴史は女と男の階級闘争の歴史であった。そして歴史の進歩とは、野蛮な家父長制を克服し女性が社会進出を果たしていくことであった。したがって、総女性社会は世界史の完成であり、歴史の終焉である。

・iPS細胞の活用
精子卵子から作ってもよいが、iPS細胞の方が簡便で負担も少ない。
総女性社会の実現は可能である!!日本のiPS細胞技術を活用せよ!!


コラム 一億総女性化社会とはなにか?
全ての人間がXXの染色体を持ち、子宮を持ち、生殖能力を有する社会。精子は個人の卵子から人工的に精巣を分化させるか体細胞からiPS細胞技術によって作られ、妊娠は人工授精で行われる。精子は一度作って冷凍保存し、個人が管理する。

*****
内閣改造、「1億総女性社会」担当大臣には、パジェロやたわしではなく雌雄同体のミミズとカタツムリを推薦する。

少年よ、恋せよ

中年男の共依存的な恋は、ダメな恋です。しかし何も持っていない少年の恋は、彼が自立して成長するために有効な場合がある。
二村ヒトシ

ロミオとジュリエットも同じような話であった。
キャピュレット家とモンタギュー家の「子供じみた」対立からの、両家の束縛からの、自立。
自立のためには、自立していなかった自分の否定が、そして自立しない自分を肯定する両親の否定が必要。

ということでなにかひとつ文章を書こうかとすこし考えたが、やめた。
親の圧力に死にたい。

おおかみになる

細田守は敵を描くのは下手だが、成熟はうまい。そして成熟とは、死、去勢の経験である。

バケモノの子ども、くまてつの描き方がすばらしい。第一に、くまてつは幼く、きゅうたも幼いこと。くまてつときゅうたは想像的な関係にあり、だからいつも競争し、けんかばかりする。しかし、想像的な相手をやり込めるのではなく、それを上に見ること、自我を否定し相手を師と認めること、これは象徴的な関係である。そしてその師弟関係が同時にくまてつも師としてせいちょうさせること、つまり、いおうぜんとの想像的な関係から象徴的な関係に踏み出すこと。この相互性は見事である。
いおうぜんは達観しているように見えるが、実は自負があり、自分に他人を自由に操ることのできる過信があり、そして実は(人間の子どもを育てることにおいて)くまてつと想像的な関係にあったのである。
もうひとつ、いおうぜんは堂々としているように見えて、実は臆病であり、正しいことに依存し、自己を省みる勇気を持たない小心者の「善人」である。くまてつは子どもであるが、そのぶん正しいことに依存せず、他人から独立しタブーを踏み、そして現実界から否定され去勢の経験を乗り越える勇気を持っている。そして子どもはそこを学んだのである。悪は善が育てる。非の打ちどころのない善人こそ最大の悪の温床である。

しかし、かえでとの関係は妙であった。かえでがなぜれんに興味を持つのか、もしいじめるものを追い払い、抑圧的な家庭を抜け出させるものであるとしたら、彼女はれんを想像的に利用したのである。また、れんとかえでが想像的な関係に入らないのも妙である。男と女というだけで、れんはかえでから「タダ」で知識を教わってしまう。そこには利用し利用されるという欺瞞の関係しかない、それを恋愛で覆い隠しているだけである。
いちろうひこはれんの影である。れんはいちろうひことの双生児であり、だからこそ決着をつけなければならないのだが、その描写が全く見られない。かえでのそんざいがそこをごまかしていないか?本来、かえでにれんの戦いを応援する動機はまったくないのである。そこがご都合主義的である。このあたり、敵を描くのが下手なのである。いちろうひこは絶対的な悪ではない。それは人間に普遍的に宿る闇のはずであり、ひゃくしゅうぼうには、きゅうたは「これはバケモノの(象徴界の)問題ではなく、人間の(想像界の)問題なのだ」あるいは、これは死の問題ではなく生き残る自己保存の問題であり、つまり、本質的には自分の問題、自分の中で決着をつけなければならない問題であって、あなたが介入してはならないのだ、と言いかえさなければならない。

だから、くまてつの死が生きない。くまてつを殺したのは人間であり、想像界であり、「れん」なのである(いちろうひこの憎しみを掻き立てたのは誰か。きゅうたがやらないことを、かわりにいちろうひこがやったのである)。師を「殺す」こと、これにより、子どもは母と子の全能感を離れ、「父」を導きいれる。師によって生かされた者は、どこかで乗り越え、否定することによって、また、師は否定されることによって、師弟関係は完結する。師弟関係の妙はこの想像界象徴界のはざまに存在する。これが、ひていされたくまてつが心のなかで生きる、いわば師として完成することの意味である。

そこで、いったい「サマーウォーズ」と「おおかみこどもの雨と雪」はどうなっているのだろうと思った。
サマーウォーズは見ていられなかった。どう見ても、祖母は「家父長」であり、既得権力者であり、制度の側である。いわばいおうぜんであり、養子のわびすけは自らの悪に葛藤した。なつきはそれをけんじに重ね合わせているが、そこにわびすけを見ていることが明らかである。わびすけはその葛藤によってなつきに好かれていたのだが、わびすけが祖母と和解すると同時に、なつきの好意の対象からはずれてしまう。なつきは祖母の影であり、これも象徴的な去勢の一つと言っていい。
ということで、ラブマシーンは祖母の半面なのである。この物語は、圧倒的な支配を及ぼす家父長を子供たちが全面否定し、自立する物語である。

おおかみこどもには敵が出て来ない。全編成熟の物語だ。
僕が一番感情移入したのははなである。「おおかみ」というのは「他者」自己の範囲では理解できない存在であり、端的には暴力の記号だ。はなは、「やくざ」な世界から正規の人間の世界に他者を引き上げたい。正規の世界から排除されるこどもを正規の世界に、自我の中に呑みこもうとする。しかし、「他者」はそれを拒み、そこにおおかみと人間の、もっといえば「男」と「女」の溝があって、そうだなあとおもった。
子育ての描写はややリアリティに欠けるところもあると思うけれども、自分の「分身」を育てよう、あるいは失われてしまった「夫」との関係を想像的にもういちど生き直そうという意思が共感できる。子供を育てるというのはこういうものかもしれない。
おおかみを雪は抑圧するが、最後にそれが認められること、そして、雨はおおかみになってしまうこと、子供が自分のもとを離れ、自分の生き直しではなくなってしまい、そしてそのとき象徴的に自分自身が否定されること。こうして物語は終わり、はなは一人になる。あるいは、死んだ狼男を受入れ、喪の作業が終わる。これはくまてつに似ているが、恋愛関係は師弟関係とは違う。もう少し言葉を磨かなければ…。

はなは最後に雨に、狼男の代理に、抱きしめてもらいたかったと思うんだけど、振り返っただけで、狼男は去って行ってしまう。彼は、そして息子は、おおかみという「他者」の世界、しかも、ほんとうはそうなってほしくなかった世界に帰ってしまう。はなは雨に人間にそだってほしかったでしょう。
そして最後に、一人山奥で、とおぼえを聞きながら過ごしているの、悲しい。しかし親というのはそういうものなのだと思った。恋愛するとは、子供を育てるとは、そういうことなのだ。恋人も子供も、最後は去っていく。人は最後には一人でとり残される。一人で生まれ、一人で死ぬのだが、最後にとおぼえがのこるのである。



なぜ「おおかみおとこ」が好きになったのか。おおかみおとこはなぜ里に下りて大学で聴講生をやっているのか?といったところを描かないのは、なんかロマンスでごまかしている観ある。
大学という空間、大学生という資格がやや美化されている感は否めない。はなは何を目指していたのか。おおかみおことのために生きることに決めた。おおかみおとこと同棲していること、こどもができたこと、はなの家族はどう思っているのか。

そらりす

タルコフスキーソラリス見たけど、途中からうんざりしちゃった。
ソラリスが女性の神秘みたいになっている。
さえない中年のおっさんが美しい女性を抱く夢を見た、みたいな話になっている。
ソラリスの具現化するハリーは、要するに自分の無意識が具現化したものにすぎないので、完璧な相貌だが、どこか不完全だ。

なるほど。ソラリスとはケルヴィンの無意識であった。なるほど!でもそりゃあわかりやすすぎるだろう!

音楽はすばらしい。映像はもっと素晴らしい。でもそれでこのストーリーを美化していいんだろうか。
ストーカーのほうがまだしも・・・まだしもよいテーマだった。
うううそれにしてもケルヴィン見ていらんないぜもしかして僕に似ているからだろうか。

最後の島は、ケルヴィンの夢によってソラリスに島ができた、ということだろうと思う。この終わり方はよいと思う。