哲学者とは、なんと悪辣なものでありうることだろう!

何とはなしに善悪の彼岸をてにとって、
はっとした。
おい、これは同じじゃないか!
ニーチェにいちばん近い立場は、誰もがそうとは思わなかったであろう、あの論理実証主義である。
正確には、論理実証主義の反形而上学の立場である。
これは、言語分析のテクニックを使えば、形而上学の薀蓄は全部ナンセンスであることが分かってしまうというものだ。
結局、形而上学者はなにか論理的な風に装って、
人生の価値とか、態度とか、そういう「気分」を書いていたのである。
論理実証主義は言う。それは詩によって追求すべきである。なぜ敢えて難解な論理を装うのか!
いや、わかっていますよ、そうやって学者的「気分」を言葉に乗せて、読者を圧倒し煙に巻きたいのでしょう?
学問の雰囲気を使って、自分の個人的な「気分」を何か壮大なものに仕立て上げたいのでしょう?
自らは学問を発展させることなく、ただその尻馬に乗って虚仮威す。
ああ、それに比べて詩人のなんと清々しいことか!
自らの課題になんと率直に挑んでいることか!
われわれ論理実証主義も、自らの課題に率直に挑もう。
気分を「論理」もどきに託すのではなく、論理のその本来の威力を如何なく発揮して、
物事を分析し、整序し、明確化し、そして知識を発展させようではないか。
それは無味乾燥とひとは言うであろうか。それで結構!
あなたは単に論理とはいかなる道具かを分かっていないで、形而上学に勘違いさせられているだけですよ!

ぼくにはニーチェならぬカルナップが、まなじりを決してこう叫ぶのが聞こえる。
「この手合いはみな俳優だ、彼らにはなにひとつ本気なものがない」!!!

ぼくは演劇部に入るぞ

演技しているとき、いちばん自分らしい。
ということが初めてわかってきた。
「かりに、」日常生活でも、ある立場としても、すべて演技しているとしよう。しかし、あなたの周りの人はそうは見なしていない、としよう。さて、どうなるだろうか。
わたしの身体はひとつということは経験的に極めて確からしい。
デカルトも言うように、ニュートン法則が揺らいでもこれだけは揺らぎようがない。いや、ニュートン則のほうが普遍的だというひとには、ナイフを突きつけて、それでも普遍的ですかと問おう。それでもそういう人には心臓にナイフを突き立てて、それでも普遍的か、と問おう。ぐさっ。
わたしの身体が一つであるならば、空間の二つの地点に同時に存在することはできない。二つのし方で別々に振舞うこともできない。そのためにはかならず時間をずらさなければならない。
それが経験的な最後の牢獄である。
この牢獄を逃れるためには、誰もがわたしの振舞いを演技だと認める場所に自らを置くほかない。
そのとき、わたしは演技をしている私を自分のものにすることができるのである。

ぼくは、決めました。次こそ演劇部にはいる、と!!!

五輪招致決定を祝す

ニホン国の首都トーキョーに五輪招致が決まった。
ニホン人の皆様、おめでとう。
ぜひ、素晴らしいオリンピックにしてください。

Tokyo, the capital city of NIHONKOKU, won the right to open the Olympics.
Congratulation, celebrated all NIHONKOKU people.
We hope you make it the distinguished festival, and are sure of you to do it!

なぜなら、これがあなたたちの国が世界史に残す最後の輝きになるだろうから…。

Because it must be the LAST chance to shine your country in the history of the world.

nwotepac, イスタンブール在住

終戦記念日の一日後に思うこと

紺碧の艦隊の一話と最終話を見る。
日本にとっての「理想の太平洋戦争」とはどういうものなのか。
現実にはありえないような兵器が出るのはご愛嬌。
逆に、原子爆弾が出てこないのは…びっくり。
だが、世界がヒトラーという悪玉と、日本・アメリカ・イギリスという善玉とに分かれるのが、「理想の太平洋戦争」なのか。
アメリカと講和し、ほんとうの悪に向けて一致団結して戦うというのは、現在の日本の戯画である(特に、独裁者ヒトラーはどこかの国のステレオタイプと被って見える)。
ということは、日本は、アメリカを恨んでいないということである。
日本とアメリカが講和してファシズムと戦うことが、理想の太平洋戦争だろうか。
原爆投下を日本は決して甘く考えてはいけないと思う。どんなに日本が危険国家であっても、なお原子爆弾を一般市民の上に投下するのは許されないという立場をとるべきだ。
第一話は、「どう負けるか」が主題だった。その主題を徹底すべきだった、と思う。僕なら、第一話は全く同じように描くが、最後は原爆で終わらせる。アメリカは実験ではなく、日本に勝つために本気で原爆を投下する(何なら東京に投下してもよい)。山本は愕然とし、苦渋の無条件降伏をするが、次は勝つ、と心に念じる。たとえ戦争でなくても、アメリカの暴挙には必ず復讐すると。

違和感を覚えるのはもう一つ。日本がアジア諸国(中国)と戦っていないということ。
日本は中国とも戦う気はなかった。アジアを敵に回す気はなかった。
これはリアルな考証ではない。
もし山本五十六が転生したら、アメリカとの戦いをもう少しうまくすすめ、戦局が進退窮まる前に降伏しようとするのはあり得ることである。
だが、もし彼が転生したとしても(加えて何人かの日本軍人が転生したとしても)朝鮮併合と中国侵略(と東南アジア侵略)を止めようとはしなかっただろう。
日本は中国と戦争をしたし、朝鮮半島を支配した。
日本はアメリカと戦ったが、アジア諸国とも戦った(ソ連とも戦った)。
アメリカとの戦争が無謀だとしても、日本はアジア諸国を手放すつもりにはなれなかったはずである(日清戦争の大勝を考えよ)。
当時は帝国主義の最終段階であり、イギリスとフランスに次いでアメリカとドイツと日本が植民地争奪戦を繰り広げており、日本はその争奪戦に負けたと考えれば、最初から植民地争奪戦に乗り出さないのが倫理的にはベストだと僕は思う。
もし山本五十六が真に見識にあふれた人だと思うなら、彼を日清戦争か日露戦争の前に転生させ、朝鮮と中国の侵略の前に軍事クーデターを起こし、最初から帝国主義戦争には加わらずに徹底して中立を守らせる。
でも、きっと山本五十六はそのような見識は持たなかったと思う。
その点で僕は紺碧の艦隊の作者に同意する。彼を日米開戦の前に転生させれば、歴史は多少は変わっただろう。だが、日清・日露戦争前に転生させても、歴史を変えることはできなかっただろう。それは、誰を転生させても同じであろう。当時の日本人で帝国主義的争奪戦に加わるべきではないと考えた為政者や軍人は、たぶん皆無であっただろうから。いや、今でも、日本は帝国主義的争奪戦に加わるべきではなかった(そのくらいなら日露戦争に負けるか、日清戦争を起こさないかした方がマシだった)と考える日本人は少ないと思う。そんなアニメが売れるとは思えない。
そして、ここが大事だと思うのだが、イギリス・フランスそしてアメリカ・ドイツ最後には日本・ロシアが帝国主義国家となり、世界の割拠を目論み、第二次世界大戦という巨大な戦争を引き起こした結果として、帝国主義の秩序が終わりをつげ、アジア諸国、そして第三世界が次々と独立を果たしたのである。だから、日本が朝鮮を併合し、中国と戦争し、東南アジアの支配に乗り出したことは、歴史的に大いに意味があると思うし、太平洋戦争の重要な側面なのである。
もし日本が中国と侵略戦争をしていなければ、日本はアメリカと戦争をすることもなかっただろう。少なくとも、国力のすべてをつぎ込む激しい戦争をすることなく、数回の海戦で講和する程度だったろう。いや、そもそも、アメリカは日本を眼中に入れなかったかもしれないし、あるいは南北戦争後の侵略対象に日本を選んだかもしれない。そのときは、日本はまるで当時の中国のように、侵略する帝国主義諸国に蚕食されるのである。

そういう想像をした小説か何かがないものだろうか。

宮崎アニメの三つの世界

忘れないうちにメモ。
A、魔女の宅急便〜耳をすませば、の系列。これは作家論。
B、となりのトトロ〜千と千尋の神隠し、の系列。これは異界論。
C、風の谷のナウシカ〜もののけ姫、の系列。これは政治論。
以下、詳しい説明。
魔女の宅急便は絵描きの少女とキキの能力(空を飛べる)とが関連していることに注意。「魔力」に「創作力」が込められている。スランプの時、どうやって前向きに物語を作るか?そして、ほんとうにいい物語は、いつ、できるのか?これがA系列のテーマ。魔女の宅急便は、友達のピンチに力が発揮できるので、物語的にはうまくまとまっているけど作家論としては不十分。いい作品は人助けで生まれるわけではない。耳をすませばは、月島が物語(小説)を書くことと、彼氏(名前が出てこない!)のバイオリンづくりが相関している。ここでの答えは明白。いい物語を作るには?それには、恋することさ!・・・まあ、それは、そうでしょう。自分の小説をあんこに恋ができたら、ずいぶん苦しいだろうけど、素晴らしいですね。(もう一回見たら、もうちょっと真面目に書きます)
となりのトトロは「子供にしか触れられない、見えない」世界の冒険譚です。ということは、子供が子供だけの世界を通して、そこから抜け出していく(サツキの)「成長」の物語になるはず。特に、最後のメイがいなくなってしまうところで、こっちの世界のサツキが、いちど「あっち」の世界にいって、メイを取り戻してくるところがよいのですね。誰でも境界の内側にいることはできる。境界を、いって、戻ってくるところに、「こころの強さ」ってもんがあるわけです。そうみると、千と千尋の神隠しは完全に「いってもどってくる」話しですね。幼いころに親しんだ小川がハクとなって現れる(で、よかったよね)とき、読み手は「この異界ともついに決別する時が来た」と思って、ぐっとくるわけです。最後に千尋の去るシーンは、小さい肩に大きなものを背負ってる感じがしていいですね。ちなみに、いなくなってしまうのはメイではなくて千尋の両親でした。
C系列は、もののけはナウシカのアニメの続編だった、という話を書いた気がしますが、ナウシカではナウシカひとりに担われていた「語りえないもの(自然)との語り手」の役を、もののけ姫ではサンとアシタカの二つに割っているところが、物語に奥行きを与えています。ナウシカのアニメ版では、結局ナウシカは王蟲の幼虫を助けるので、だから自然愛護とか勘違いをされてしまうのでしょうが、人間の「徹底的な愚かさ」(火の七日間とシュワの墓地)をナウシカの自己犠牲だけで描くのは難しかった。それを、単純に一人の人間がどちらも媒介できるのではなく、サンとアシタカを通じて(つまり、二人の交流を通じて)間接的につながるのが、それぞれに人間界のドラマと自然界のドラマを描けていると思う。もののけ姫では、自然界は、盲目的に怒る王蟲の大群ではありません。B系列とはっきり区別しなければならないのは、これは「いってかえってくる」話しではないということ。ナウシカは決して風の谷に戻らないし、アシタカは決して彼の村には戻りません。ここをもうちょっときちんと説明したいが、僕の力不足。しかし、あのですね、政治とは、最後には、人間の力と人間にあらざるものの力との調停なのです。それはきっと卑弥呼の時代から変わらぬ…(だんだん自信がなくなってきた)。

それ以後の宮崎作品がこの三つのレジームに収まるかどうかは、観てみなければ分かりません。それ以前の宮崎作品について考え始めると頭が痛くなるので、ノーコメント。

今日は恐ろしい夢を見た。とにかく、何もかもが恐ろしく、これはどうみても駄目だろうということがみている者にもわかるような夢で、じっさい夜中に二度起きて、二度目はベッドから滑り落ちて、そのまま床で三度寝をしてしまった。
こういうのを恐ろしい夢というのだ、諸君!
そういえば、数日前さらに恐ろしい夢を見た。僕の担当の二頭の馬が共食いをして、その次には、僕が床の上でのびていて、気が付くと青白い部屋中が酒の空き缶とたばこの吸い殻でいっぱいで(僕はいつも寝るとき鍵をかけていない)、ベッドの上には真っ白衣服の真っ白い(ちょっと黄緑を溶かし込んだような色の)少女が幻想的な微笑みを浮かべて、無言で「奴ら」がバカ騒ぎをしていったよと教えてくれた。
今夜はどんな夢を見るのだろう。

動物化するポストモダンについて

http://togetter.com/li/533391

あっ!この指摘は正しい!
東は論の背景に、「フィクションの消費」として三つの段階を想定している。
1「大きな物語」、2「過渡期」、3「データベース」
それぞれ、ヤマト、ガンダム・マクロス、エヴァ、と移っていく。
そして、図3では1/2・3の対立を、図10では1.2/3の対立を、描いている。それゆえ過渡期の物語消費が、図3では後者に、図10では前者に対応する。
ところが、図3と図10を比べると構図が完全に二項対立。
なので、「過渡期」の部分は両者を共有している(二項対立が現れない)と見るべきなのだろう。

これが動ポモの基本的な図式です。
その上で、東が近代を意図的に避けているのは、そのとおり!「近代」で挙げるべきマジンガーZのようなアニメが、「大きな物語」の消費にうまく一致しないというのは、見事な反証。
そこで、2と3が対立するように論を進めるのだが、2は過渡期なので対立しようがない。対立は1と3とで定義されるはず。
ということで、1をきちんと描けない限り、そもそも何が対立しているのかがよくわからない。これは、論旨の展開のうえで、致命的ですよ!だって、ほんとに、何が対立しているのかがよくわからないのだもの。そして、これをごまかしごまかし、過渡期とデータベースの対照を云々しながら話が進んでいくのだ。

いやぁぁぁ…。
たしかに、最初に設定した対立図式が、論を進めていくうちにだんだんぼやけてきたり、別の対立に置き換わってしまったり…という概念の変容は、よくあるのですよ。
しかし、そもそもきちんと対立図式を作らずに、話しをずるずる進めていくのは、これは文章技術的な問題です。東はそれに成功しているという。うむ。この「ごまかしの文体」の研究はぜひ一度やってみたいですな。
僕自身がそういうことをしないよう、反面教師にするために。