何とはなしに善悪の彼岸をてにとって、
はっとした。
おい、これは同じじゃないか!
ニーチェにいちばん近い立場は、誰もがそうとは思わなかったであろう、あの論理実証主義である。
正確には、論理実証主義の反形而上学の立場である。
これは、言語分析のテクニックを使えば、形而上学の薀蓄は全部ナンセンスであることが分かってしまうというものだ。
結局、形而上学者はなにか論理的な風に装って、
人生の価値とか、態度とか、そういう「気分」を書いていたのである。
論理実証主義は言う。それは詩によって追求すべきである。なぜ敢えて難解な論理を装うのか!
いや、わかっていますよ、そうやって学者的「気分」を言葉に乗せて、読者を圧倒し煙に巻きたいのでしょう?
学問の雰囲気を使って、自分の個人的な「気分」を何か壮大なものに仕立て上げたいのでしょう?
自らは学問を発展させることなく、ただその尻馬に乗って虚仮威す。
ああ、それに比べて詩人のなんと清々しいことか!
自らの課題になんと率直に挑んでいることか!
われわれ論理実証主義も、自らの課題に率直に挑もう。
気分を「論理」もどきに託すのではなく、論理のその本来の威力を如何なく発揮して、
物事を分析し、整序し、明確化し、そして知識を発展させようではないか。
それは無味乾燥とひとは言うであろうか。それで結構!
あなたは単に論理とはいかなる道具かを分かっていないで、形而上学に勘違いさせられているだけですよ!
ぼくにはニーチェならぬカルナップが、まなじりを決してこう叫ぶのが聞こえる。
「この手合いはみな俳優だ、彼らにはなにひとつ本気なものがない」!!!