らくがきとゴジラ

本当は三つ切れ目を入れて、「空間概念」と題するはずだった。

ゴジラ1954年について。

ゴジラとは?
・旧日本軍
アメリカ軍
所謂「戦前的なもの」が表象されている。
敗北によって抑圧された戦前が、「怪獣」となって現れている。

自衛隊はもろに日本軍ですね。

日本軍はなにと戦うのか?
劇中で、ゴジラは水爆だ、とも言っている。水爆が形を変えて現れたものだ。
誰が水爆を落としたのか、ではなく、水爆そのものが実体化している。これは自然災害に近いイメージ。
しかし、日本軍が戦うものはアメリカしかいない。つまり、ゴジラという形で、日本は戦争の経験を生き直そうとしている。戦争の経験の反復。

もう少し言うと、1954年は「もはや戦後は終わった」の年。第五福竜丸被爆の後、民科の運動が急速に衰退し、日本全体が政治よりも経済に前のめりになっていく。

沢柳博士はなぜ命綱を切るのか。
ゴジラに体当たりして死ぬのとは違う。命を引き換えにではなく、ゴジラを殺した後に、自分は生きるよりも死ぬ事を選ぶ。これが特攻とは違う。
・表面的には、科学者の葛藤。科学は科学のもたらしたものに責任をもたなくてはならない。科学を自由に軍事に応用していいというのと、科学と民主主義、科学と平和、科学と進歩、とは結びつかない。そこに科学者は葛藤を感じ、筋を通さなければいけない。
その点で、沢柳博士とストレンジラヴ博士は対照的ですね。

・しかし、その裏には、

そもそも日本は軍隊を持っていない

ということがある。
オキシジェンデストロイヤーを実戦配備するような自衛隊は、9条に抵触してしまう。
水爆に勝てる兵器だから、これは実質的な核武装。つまり、沢柳博士は科学者の義務というより、戦争と軍隊を放棄した国の科学者として戦争状態にいかに協力するかをめぐって葛藤しているのである。

だから、沢柳博士の死は、そのような科学者は戦争への一切の応用を、自分の頭脳の破壊を以てしてでも防ぐという形で、9条の理念を、戦後民主主義の理念を体現しているのである。

さいごに。ゴジラでも核武装でも見落とされているのは、本当は日本軍は米国と戦うはずで、核武装は米国が許さない、ということ。前者は自衛隊ゴジラと戦うことによって、後者は沢柳博士が個人的に葛藤することによって、ごまかされている。
僕は、ゴジラは旧日本兵の亡霊であり、戦後日本の欺瞞を身を挺して告発しに来たのだが、沢柳博士の戦争放棄の倫理の前に敗れる、というように読む。

Don't stap me

クラスタで話題になっていた「STAP論文」を読んでみた。

https://sites.google.com/site/kyototekken2011/rejume/ke-xue-zheno-meng
https://sites.google.com/site/kyototekken2011/lun-wen/stap-xi-baono-xing-cheng

いやはや、こんな長文ご苦労様、というのが第一印象。
で、内容は。

は?

いったい、このひとは、何を言っているんだろう。
大前提として、STAP細胞は科学者の間で間違いだったことが認められている。というか、論文撤回の段階で既に「間違っていました」という合意はとれている。撤回した論文の中身をいくら主張しても撤回の事実は変わらない。この人は、自分が説明しなおせばNatureが納得して論文を再掲するって思ってるのかな。すごい自信だ。
でも、やってることは試験で落ちた学生が答案を書き直して「これなら正しい!」って言っているのと同レベル。というか、人様の答案をわざわざ書き直して提出してあげてるんだからよっぽどお人よしなんだね。
勝手に騒ぎを大きくしようとしてるなら迷惑もはなはだしい。こういう正義の押し売りをする人が、せっかく消し止めたボヤを大火事にしてしまう。煽られる方も煽られる方だけど、他人を煽ることにこんなにも熱中できる人間がいるとは、ネット民の裾野の広さを再認識した。

ちょっと読んでみた感想は、「分かってないなあ」の一言に尽きる。
まず、書いてあることの8割は教科書レベル。というか、教科書に書いてあることを論文まで当たって写してきたって感じ。まあコピペじゃないぶんレポートとしては評価できるけど、ふつうの研究者ならそれで?って思うだろう。でも何も知らない人がこれを読んだらなんだかすごいことがたくさん書いてあるって思うんだろうなあ…
こんなに調べたんだよ、すごいでしょ、って、それは余所でやってくれよ。わざわざ野次馬根性を他人に見せつけないと気が済まないのかなあ。

何が「分かっていない」かというと、他人の言ってることをいくら言い直してもそれは他人の言っていることにすぎないということ。こんなの小学生でもわかることだ。でも、すごくたくさんの人の言っていることをすごくたくさん言い直してるうちになんだか「新しいこと」を言ってる気分になるんだよね。特に人文系の人は。
特に偏執的な参照文献の多さには、困ったもんだとしか言えない。

科学の基礎を繰り返すなら、それが新しい事実かどうか?が問題だ。もし私が同じ内容を書こうと思っても、まず実際にやってみる。それで、こういう結果がでました、というのを書いて、もし気になる事実があればさらに追試する。そういう内容になっていなかったら、そもそも科学的な議論にならない。
つまり、極端な話が、実際にT細胞を弱酸性溶液につけてみて、どうなったのか、を書かない限り、そこには何も書かれていないに等しいのだ。
だから結論。ここには何も書かれていない。お疲れ様でした。

あたりまえだけど、人間のやることなんだから不正は起きる。悲しいけど、不正はゼロにならない。やるべきことは次は不正を犯さないこと、まず自分が犯さないことであって、不正を「不正じゃなかった!」ってもみ消すことじゃない。

それは嘘

やっぱり納得できない

・立ち上がって喝采する観客と、陰口をたたく観客とが分離されている
・客観的に評価できる演奏技術を、操り人形と言ったり天才と言ったりしている
・グールドのように、聞き手を信用しないという立場もありうるし、カラヤンのように、聞き手の評価がすべてという割り切り方もある
・聞き手に届かないという葛藤がないのが不思議。伝わると思った瞬間に伝わらないのが音楽では

・徹底的に譜面通りに弾くというのも個性
・母のことを忘れるというのは解決の方法ではない。母に届けようとするのが個性だったのでは
・なぜあのタイミングで母が怒ったのか不明。譜面通りではない演奏をしたのか(母の怒り)、譜面通りの演奏をしたのか(1位になる)、わからない
・なぜあのタイミングで母がわらったのかも不明。今までの怒りは嘘だったのか
そして、なぜ怒るのか、なぜ褒めるのか、わからない、というのが典型的な支配。なので、ストーリー全体がとてもストレスフルです

父を殺してからすべてが始まるように、母を本当に殺してからすべてが始まるのではないか。亡霊が微笑めばいいのではなく、亡霊がいなくならなければ、解放にはならない
あーでもほんとに分かってる人は、世間の評価なんてそんなものだよって割り切ってアニメを見てる気がする

・失敗した演奏で凡才というのではなく、成功した演奏の凡才さを見つけるのでなければ、よい批評ではない(なぜなら批評とは反権力的なものだから)
・それから、演奏の善し悪しはまずは誠実さ(裏表のなさ)ではかるべきなんだという感想を強くしました

・生の音を評価できるか、というような演出(映像も言葉もなしで、演奏だけ流れる)をやってみたくなるね
・あと、このストーリーなら主人公は女にする

*しかし、演奏がこのように評価されると思えばこそ、僕が違うように演奏を評価したいと思うことには意味があるんじゃないかと思う

*もうだいぶ忘れてしまっているが、これは「母の死」を生き直す夢ではなかったか。

戦争論

人びとはほとんどの場合、社会についての知識をもっていない。ただし、社会というのは、組織立った人間の集団のことである。
例えば、いま所属している組織の来歴、意思決定の仕組み及び権力者、構成員の所属の動機などをどのくらい把握しているか。ただし、組織には、家族、学校、企業、行政府あるいは国家まで、様々な大きさのものがある。
家族の来歴についてさえ(なぜその家族が構成されるに至ったのか、今も構成され続けているのか)、そのおおまかな要因を列挙することは難しく、そのほとんどは共有されていない(あるいは、個人個人がそれぞれに多少都合よく合理化している)。
これが企業や大学ともなると、なぜその仕事が仕事として成立しているのか、その需給の背景、その企業は(起業は)なぜ成立したのか、といったことはほとんどの人が漠然と把握し(その把握は踏み込んだ情報収集によって不合理だとわかることも多いにもかかわらず)、適当に合理化している。なぜ労働力を集団に預けているのか、市場で商品の交換という形で人を使役する権利である貨幣が分配されるのか、といったことはあまり把握されていない。そのような分配は、現在の人と商品交換の動向や生産・管理技術や組織構成や、その来歴によって正当化されているはずなのだが、その根拠はほとんど把握されない。
なぜなら、それらの行動パターンは過去もそうなっていたからという慣習によってほとんど正当化されており、むしろそのような正当化の文脈が問題になるのは例外的である(だから倒産のような事象が驚きを生む)。この慣習による正当化は、制度と呼ばれる。組織の制度化によって、私たちは(認識の及ぶ数十人程度の)限られた対人関係と自分に関わる契約や職業的役割についての限られた情報をもとに、日々の生活を自信と確信をもって行い(安心・安全)多くの欲求を充足もしくは適宜折り合いをつけることができる。
この限りで、個々人は個々人の問題に個々人で対処することができ、対処の不完全さによっては責任が生じる。責任の範囲や大きさは慣習的な合意でほぼ決定される。また、他人への干渉は慣習つまり制度的なものによって正当化され、そうでなければ、個人対個人の問題である(これは原理的である)。制度化が強固であればあるほど、個人間の問題の比重が多くなり、問題解決のアプローチは個人主義的になるだろう。反対に、集団主義的な人は非制度的な、慣習に依存する程度の低い組織を好む。

他人に対する干渉、特に闘争的な干渉は自己の不利益に対して行うものなので、目的と手段を個人の中で明確にして行動すればよい。そのような個人的問題の解決を繰り返すことが「社会で生きる」ということになる。
ところが、このような思考に僕は完全になじむことができない。自己の不利益の度合いが極端に大きくなって、抜き差しならぬところになってやっと腰を上げることになる。かなりブラックなアルバイトの契約を断ったときも、ほとんど体力の限界に近かった。また、理由がよくわからないままに乗り換えさせられたプロバイダーの契約も、料金の滞納と親の叱責でようやく腰を上げた。このような、自己の不利益にドライに対処することができない、あるいはあまり重要なことだとは思えないということは、お金の使い方がよくわからないというところにも表れている。お金は市場において人を(商品・サービスの交換によって)任意に使役する権力である。このために、お金のために仕事をする、つまりこの仕事をしたことによってお金や名声といった分かりやすい形で承認を受けるということがどこかあさましく、仕事のモチベーションとしてあまり適当でないように思われてしまうのである。お金や名声は結果として手に入ることもあるだろうが、目的は仕事をすることそのものにあり、仕事そのものの公共的な価値にある。だから僕は、驚くべきことに、どのような仕事にも仕事をするだけである程度満足ができる。あるいは、仕事をすることからできるだけ何かを引き出そうとする。お金は、もしもらえなくても、激しく後悔することはない。むしろ、違約があったことを責めるべきだとおもい、正義を実現しなくてはならないという義務感が生じるのである。
これは社会に生きることができないということであり、あるいは学校で進学のためではなく勉強そのもののために勉強するという理想を一貫できた優等生に特有の心理だと言えるのかもしれない。しかし僕に限って言えばこの信念を貫くことも可能であると思う。しかし、そのためには徹底的に自分を鍛えなければならない。この仕事を行うことにはどのような意味があるのかということを金銭と名声以外のファクターによって他人に説得できなくてはならない。
僕はそれが可能だと思っていた。自慢をするが、僕は翻訳でレヴィ=ストロースマルクスケインズもスミスもウェーバーブルデューデュルケームロールズマートンもコリンズも自分である程度説明できる程度は読んだので、社会は認識可能であると主張するだけの理論武装ができると信じたかった。この仕事や生活に経済史的に、社会分析的にどのような意味があるのかを常に確認できるし、確認できなければむしろ学ぶべき課題が明らかになるという幸運に接したと考えてしまうほどの自信家である。これはもう僕の性分になってしまって、この先当分は抜け出せないと腹をくくるべきではないだろうか?客観的に見ても、そのように腹をくくることが僕の場合は明らかに合理的だと思う。

その上で、ほとんどの人間は社会において慣習を最大限活用して生きており、僕は認識を挟まなければいけないという点でやや社会的に不適合でありハンデを負っていると理解できる。この理解から、戦争状態とそうでない社会状態とは連続的であるということを直観したので戦争論というタイトルをつけたのだが、思考の余白・・・ではなく余暇が足りないようだ。

H.A.ローレンツ

偉大な学者をひとり挙げよと言ったら、僕はこの人を挙げる。
H.A.ローレンツは、あのローレンツ変換ローレンツである。エーテルという「迷信」にさいごまでしがみつき、アインシュタインにその道を譲った、ローレンツである。
僕はこのひとの言行に共感するのではない。
たしかに、ローレンツは立派な人格者だったようだ。
晩年も、ローレンツからの賛辞は当時の物理学者の誇りだったという。
しかし僕はそのような個人的なエピソードには、あまり興味がない。
僕が偉大さを感じるのは、ローレンツのおかれた状況である。
学者に限らず、彼のような状況に置かれたとき、ひとはほとんど正気を失ってしまうと思う。
人間を信頼できなくなってしまうと思う。
ローレンツが当時の状況でどう考え、どう行動したのか、詳しいいきさつは知らない。
しかし、ローレンツは人間としてなしうる最高の振る舞いをしたと思う。
学問の崇高は、当時のローレンツの一挙一動に体現されたような感じがする。
これは、ほぼ確実に僕の思い込みだ。
その思い込みの理由に、どうか、付き合ってほしい。

僕が高校の時、ケインズに没頭したのは、例のサブプライム問題で経済が混乱を極めていた時だった。
僕は、金融工学新古典派経済学が、サブプライム問題に無警戒であったこと、そしてサブプライム問題に楽観的な立場をとっていたことに、ひどく腹を立てていた。
僕はそれらの学問の内実は知らなかったが、どうしても許せないと直感したのである。
『一般理論』に付された訳者の言葉は、僕の怒りに形を与えた。

ケインズの『一般理論』が刊行されてから70年の歳月が流れた。人間の人生に例えれば還暦を迎えてさらに10年を生きたわけである。しかしその後半生は必ずしも幸福なものではなかった。…「ケインズは死んだ」と言われて、すでに久しい。

たしかに、一世を風靡した書物の中には、一時代が過ぎ去るとその活動的役割を終え、あとは博物館の中でひっそりと別の人生を送るものがある。われわれは過去の遺品としてそれを眺め、もし可能なら学説史の中にふたたびその居場所を与えてやる。このような書物はその生命を終えた、すなわち死んだと言っていいかもしれない。

しかしまた、書物の中には、はっきりと目にすることはできないにせよ、他の書物、他の理論の中において自らの生を生き続けるものがある。…プラトンの哲学はすがたかたちを変えながら現代にまで生きている。すがたかたちを変えるということは…まるまる肯定することとはかぎらず、否定というかたちを取ることもある。しかしその場合でも、書物は後世に生き続ける。生き続けることによって理論を発展させていくのである。

ケインズの場合も同じではないのだろうか。彼の理論もまた決して死んではいない。

その後のことばは、僕の心に嵐のように吹き荒れた。

もしも死んでいるように見えるとするならば、それは「殺意」をもって「殺された」のである。

半年ほどかかって、僕もまたこの「殺害」を確信するに至った。信じられないかもしれないが、僕は『一般理論』の運命のために何度も枕を濡らしたのである。高校二年生は終わり、大学受験の足音が迫っていた。僕は塾の中の一番下のクラスに落ちた。何度も侮蔑的な言葉を吐かれた。それでも僕はめげなかったし、受験に落ちて親になじられても立ち直ることができた。なぜなら、僕はケインズを読めていたからだ。僕の周囲で受かっていった人たちと比べて、僕が学問の素養において劣っているとは、僕にはどうしても思えなかった。僕が大学に行くべきなのだ。僕は大学に行かねばならないし、大学は僕を受け入れなければならないのだ。
ああ、僕はいま、これを書きながら、涙を流している。
僕はかつては、この世界と学問の運命のために涙を流したのだ。それがいまや、わが身のためだけに涙を流している。僕は何と小さく惨めな人間になってしまったのだろう。

H.A.ローレンツの業績をはっきり指摘することが、誰かできるだろうか。
ヒント。これはとても簡単。理系の大学生なら誰でも指摘できる。
電磁気学における、「場の古典論」を完成させたのがローレンツである。
ポアンカレも重要な貢献をしたが、理論を具体化したのはローレンツである。
今の電磁気学の教科書は、ローレンツの業績といって大過ない。
19世紀、多くの物理学者が電磁気学に貢献した。
それは、ローレンツの電磁場の理論に収束する。
ただし、ローレンツは「場」とは呼ばなかった。
なんと呼んだのか? (読者は想像がついているかもしれない)

エーテル」と呼んだのである。

ローレンツエーテル理論は、かの有名なマイケルソン・モーリーの実験を完璧に説明した。

光速は、なにがあろうとも、絶対に変化しないものなのであるから、エーテルに対する観測者の運動状態に応じて、光の速度がどう変化するかなどと考えること自体、もはや完全に意味がなくなった。

ある科学史の読み物からの引用である。この言葉は、ローレンツの理論にこそ冠せられるにふさわしい。「状態対応の定理」とは、まさにこのようなものである。すなわち、電磁現象を力学的に検証しようとすることは全くの無駄であるとを、この定理は主張する。
ローレンツの理論は、次のように、簡単に要約される。

媒質ではなく電磁場そのものが物理的実体であり、それが波となって空間を伝播し、エネルギーを運ぶことが実証される。

しかし、この言葉はアインシュタイン特殊相対性理論に冠せられた言葉なのだ。そして次のように続く。

こうして、長い間、物理の世界を徘徊していた“エーテルの亡霊”は姿を消していった。その顛末は、誰一人として実際には見たこともないくせに、あたかも存在するかの如く皆で取り繕っていた「裸の王様」のマントにどこか似ている。童話の教訓は物理の世界にも当てはまる

のかもしれない、と続くが、筆者は当てはまると言っているのである。
残念ながら、童話の選択が間違っていたと言わざるを得ない。なぜなら「エーテルの亡霊」はまさに亡霊となって、現在でもすべての電磁気学の教科書のなかを徘徊しているからである。童話は童話でも、私たちは、あの大人の童話『共産党宣言』を思い出すべきであった。

いま、一匹の妖怪がヨーロッパ中を徘徊している。共産主義という名の妖怪が。

いまや、電磁気学の教科書はエーテルの亡霊で一杯だ。

「王様は裸だ!」と叫んだのは、王様の行列を見ていた一人の少年であった。少年の発した一声が、それまで取り繕いに腐心していた町中の人々の目を開かせたのである。
1905年の論文に込められた「エーテルは存在しない!」という叫びも、アインシュタイン少年の素朴な疑問が発端であった。この一声が、新しい時空概念にもとづく20世紀物理学の発展を促すことになるのである。

あるいは、そうかもしれない。
学問で最も大切なのは、少年の素朴な発想なのかもしれない。
…そんな風には、僕は、絶対に、思わない。

ガキンチョに学問のなんたるかがわかってたまるか!

「おとぎ話」には緻密に検証された科学史の業績を対比させるべきだ。
学問の崇高さは、子どものとらわれない思いつきにあるのでは、断じてない。
ローレンツの偉大さが、わかってきただろうか。
ローレンツは、特殊相対性理論が発表された時、まさにその渦中にあった。
ローレンツは、もちろん、自らの理論を擁護した。
しかし、アインシュタインの理論にも言及し、最後は、それを認めた。
それを、単なる自説の否定ではなく、科学の発展の中に置きなおした。
それを、自らに連なる数多の偉大な物理学者の軌跡の先に、置きなおしたのである。
アインシュタインは、ローレンツによって、物理学者となった。
「子ども」のアインシュタインを、ローレンツは「大人」として遇した。
そして、自らは学説史の中から身を引いたのである。
ローレンツは、フレネルの理論に心酔して以来、物理学者としての半生をエーテル問題にささげた。
そして、科学的に、もっとも洗練された理論を創り上げた。
もしアインシュタインがいなければ、すべての物理学の教科書がローレンツの名前で埋まっていただろう。
ローレンツは、しかし、晩年になって、アインシュタインにその座を譲った。
ローレンツは、学問の健全な発展には、アインシュタインの業績を言祝ぐことを善しとしたのである!

これ以上に偉大な精神があるだろうか?

自分の業績にしか興味がないような、我利我利の学者には、決して、決して、ローレンツの精神は分からないに違いない。
彼らは子どものような純粋な発想こそすべてだと思っている。
彼らはよってたかってローレンツを罵倒する。
いわく、数学的には同等の理論を作り上げながら、ついに相対性理論にたどり着くことは無かった……。
だが、ローレンツはそんな計算屋ではない。
計算だけして、数学的技巧にまんぞくしているような、そんじょそこらの学者さんとは、

わ け が ち が う 。

自分の全人生の献身を、学問のためだけに、学問の発展のためだけに、譲り渡すことができるだろうか?
学問的に、考え得る限りの最高の達成をしていながら、それを、新しい才能のために譲ることができるだろうか?
これ以上に讃えるべきことが、他にあるだろうか!
ブッダの境地も、キリストの献身も、神武天皇の国造りも、僕にはローレンツに及ばないようにみえる。
それでも、それでもあなた方は言うだろうか。

「科学において素晴らしいのはその内容である。」
相対性理論が優れており、アインシュタインが素晴らしい。」
「新発見が大事なのだ。」
「客観的に、合理的に、自然とふれあうのが大事なのだ。」
「君のような感情的な人は、研究には向いてないよ。」

残念ながら、そのとおりだ。
僕は決して思い上がってはいない。
相対性理論の革命のようなできごとは、学問の歴史の中でもあるかないかのできごとだ。
僕の人生が、ローレンツと同じ境遇にあるわけではない。
僕の能力が、ローレンツに少しでも比せられるわけではない。
無能な人間は、せめて遠吠えだけでも慎むのが、世の中のためである。

最近、ケインズの書物についてのまっとうな評価に接した。
総供給関数と総需要関数が投資需要の変動により乖離するところの、ケインズのオリジナルな説明は極めてわかりにくい。
貯蓄と投資は等しい。生産は家計の所得になる。所得は消費と貯蓄の和である。だから生産は消費と投資の和である。消費はあまり増えないので、生産を増やすと投資が増える。投資分の所得はより多くの投資で回収せねばならないが、そのような投資が常に見込めるわけではない。そこで、公共事業でその分の下駄をはかせよう。
ところが税金の出所も所得なので、可処分所得と税金分の公共事業の和が来期の所得である。その所得の増大は公共事業の実体的価値に依るから、企業が投資するか国が投資するかの違いしかない。国の投資なら乗数効果が発生するという説明は明らかに破綻している。
僕はこの本を読み進めることができなかった。
途中で放り出して寝てしまい、夜中に起きてもう一度読み直した。
流動性選好のポイントは岩井と同じ。不況は金利高ではなく交換の障害から起こると言うが、金利高の原因に交換の障害を読み込む。障害を招く原因のバブルの美人投票は、美のイデアを射止めるシステムではないが、均衡があり得る。どこで均衡するかが問題。最後に、ナイトの不確実性に人間がどう対処するかを誘惑のコストで理論化する展望を描く。
まあ、特に、反論の余地はない。
振り返ってみると、僕はいったいケインズのどこに「殺害」を見たのか、よくわからない。
僕は、『一般理論』に対して、これほどクリティカルな批判がありうることを想像だにしなかった。
このような問題意識は、僕には絶対に浮かばなかった。
これらについて考えることすら、僕には思いもよらなかった。
今でも、何か、夢を見ているような気持になる。
僕は急に、わが身が恋しくなってしまった。

僕は、学問への道を歩むことを止めようと思っている。
たしかに現在の学の状況に鑑みて、英語も数学も得意でない僕の能力はさしたる役には立たないかもしれない。
しかし、まったく役に立たないわけではない。
そして、いくばくかでも、分相応の貢献を学問に対して行うことは、僕の人生をかけるに値することだと僕は思ってきた。
けれども、僕はもう今はそんな風に思うことはできない。
このような人間が、これ以上学問の世界に止まるべきではないと思う。
友人には、学問に信頼している人が、多くいる。
彼らのようなひとが学問の道に進むべきだと思う。
僕にはもう、学問の苦楽に耐えきる自信がない。

「汝、自らを知れ」
そして、引き際が大切だ。