徴兵制復活

これから日本のとるべき道は徴兵制の復活であるという話をする。

ただし、徴兵制の復活は周辺諸国(具体的には日本が戦争・占領をした国)への謝罪とトレードオフである。
すべての国家は軍隊を持つ。いや、軍隊に限らず、組織された暴力装置を持っている。学校で体育をし、一律に制度化された勉強をするのは、身体であれ、科学技術であれ、あるいは法制度や政治イデオロギーであれ、官僚・企業・学校組織の再生産等々の近代的制度に順応すること、それを組織する一員になることである。また、このように組織された集団が一律に協力して巨大な成果を生み出すとき、細かい分業によって統制された集団行動を行うとき、それを暴力装置と呼ぶ。それがどのように行使されるかは状況次第である。

国民国家はいつでも総力戦体制である。その形態が変わるだけである。その点で、学校も軍隊も暴力装置の一部としての性格は同じであると思う。徴兵制も、軍隊も、平和裏に行われれば学校と同等の社会維持装置として機能するだろう。
派生的な問題は、軍隊がホモソーシャルな空間になることである。今の社会では女性の徴兵を認めなければならないだろう。軍隊はキャリアトラックのひとつであり、その利用は両方の性に開かれているべきだろうから。
私は学校(中等教育以上)も軍隊も国民国家では同じように機能するのだろうと言いたい。学校が素晴らしいのと同じように軍隊も素晴らしいし、学校が醜悪であるのと同じように軍隊も醜悪である。

さて、国民国家は軍隊を持つし、現に日本も軍隊を「持って」はいるが、それを持っていないことにしているのは、軍隊を持つ(公的に認める、正当化する)ことがそのまま暴力的拡張主義あるいは暴力による短絡的な紛争「解決」を引き起こすだろうということに、周辺諸外国だけでなく多くの日本国民も同意している結果である。私たちは倫理的に未熟であり、このようなさるぐつわを噛ませておかなければなにをしでかすかわからないということを、70年前の歴史が物語っているのである。

この倫理的未熟のおかげで、日本はいまだに根本的な謝罪を免れている。それが、戦争犯罪自己批判できなかったことであり、とくに、昭和天皇を存続させたことである。
したがって、軍隊を「持つ」(公的に認める、正当化する)ためには、戦争に対する徹底的な自己批判憲法改正を含むレベルで行い、台湾、韓国、中国、東南アジア、そして米国(旧ソ連にはしなくていいと思う。不可侵条約を向こうが破ったので)に首脳あるいは国会決議のレベルで謝罪することが必要である。
しかし、これによって日本は学校とならぶ国民国家の組織化手段である軍隊を正当に手に入れることができる。

そのかわり、日本は暴力装置を倫理的に、国際法に則る形で、その直接的な行使を可能な限り避けるというしかたで、使うことができなければならないだろう。これができるか、あるいは、できるようになるだろうか。
アメリカに管理してもらっている現状では難しいと思う。そのような、暴力を管理する知恵の蓄積がないからである。この蓄積は、もしかすると実際に、内乱なり戦争なりを経験しなければ培えないものなのかもしれないが。
だが、いずれ日本は徴兵制を復活し、同時に周辺諸国に謝罪し(憲法のレベルで天皇制を放棄し)、そしてアメリカから独立することになるのではないだろうか。