大文字山からの眺望

朝八時半ごろ、銀閣寺のあたりを散歩して、ついでに、大文字山に登った。
登るのは、体力の低下もあってか思ったよりも苦労した。道はそれなりに険しいが、別に登山の準備が必要というほどではない。運動靴で十分に上れる。朝なので、健康のためなのか、同じように大文字山に登る中高年の方とたまにすれちがった。
おはようございます、とだけ挨拶を交わすのだが、京都弁なのかと言われるとよくわからない。しかし、あさ8時過ぎに登るのはきっと地元の人たちだと思う。
20分くらい山道を登ったか、大文字を焼く広場に出る。ここから頂上までにはなおいくらかの距離がある。が、登るには及ばない。
絶景だ!
僕はびっくりした。本当に、声を失ってしまったくらいだ。素晴らしい眺望とは聞いていたが、ここまでとは、まったく、想像できなかった。
眼下に京都市街が一望される。
朝、に加えて今日は曇天。軽く小雨が降り注ぐ。ふもとの銀閣寺のあたりには白い靄がかかっている。雲も低い。周囲を山に囲まれているせいもあって、なんだか空中都市というような、そんな趣すらある。
遠くは気中の微小な水分子が光を散乱するので真っ白になって空とも地とも見分けがつかない空間になっている。うっすらと山の稜線が浮かんでいる。話によれば、天気が良い日は大阪の方まで見通せるそうだ。
雨の中、京都の市街は沈潜として盆地の中にうずくまっている。京都駅の方から、彼方に広がる右京、眼下に見下ろす左京、京極(四条・河原町)の繁華街まで、京の都全体がひろがっているのである。
本当に、みごとなパノラマであった。
百万遍の下宿から、ここまで早足で30分強である。
京都大学の裏山、つまり吉田山、も確かに散歩の甲斐がある場所だ。吉田神社、そのほかいくつかの社が木々の合間に佇んでいる。ただ、その眺望は、悪くはないとはいえ若干難がある。景観というより雰囲気を楽しむ感じ。しかし大文字山は圧倒的なスケールで見るものに迫ってくる。下宿からこんな近くに、こんな展望台があったとは。
京都っていい町だなあ!
東京は広すぎるのですね。

ちなみに、鶯も(鴉も)鳴いていて、情趣を引き立てていました。

そういえば鴉は鳩を食べるのですね。馬房には鳩がたくさん住んでいるのですが、卵や親鳥が定期的に鴉に食べられています。

それで、僕は感動しきりだったが、服が濡れてだんだん寒くなってきたのでふもとにおりたのだ。すると、銀閣寺の前が来る時とは打って変わって、ずいぶん騒がしくなっている。閉まっていた門が今は開いている。そしてその中にざわめきとともに制服姿の、きっと高校生だろうが、が吸い込まれていく。先生らしき人が、これは慈照寺というんだね、本当は。などと薀蓄を垂れている。そうしてシャッター街だった銀閣寺前が、急に土産物屋のひしめく商店街へと一変し、獲物をつぎつぎとひっかけていく。
修学旅行なのだ。

京都の人間は冷たいと聞く。よそ者、というか、おのぼりさんに冷たいという。彼らは京都の外観を見るだけ見て、すぐに帰ってゆく。そういう人々に対して、京都の市民は冷めているのだそうだ。そして彼らには決して内側の姿は見せない。
僕だっておのぼりさんだ。
4年やそこら住んだところで京都の人間は心を開いてはくれないだろうし、京都の市民の文化になじむことなど僕はできないだろう。
しかしひとことだけ。京都市民は形式を重んじ、礼儀を重んじ、慣習を重んじ、既存の人間関係を重んじる。その閉じた共同体の中では人々の関係は截然として、なれなれしい関係は作らないそうである。