引退

シェフチェンコファンデルサールスコールズが引退。
オーウェンもそろそろ。
ひとつの時代の終わりというが、確かに、そうなのかもしれない。

本人の活躍を知っているわけではない。小学校・中学校時代、僕はプレイステーションを持っていた。叔父さんから貰ったものだ。ソフトは一本だけしか買わなかった、それがウィニングイレブン2000。父がプレイステーションが家に来たその日に買ってきた、と思う。そして、その日以来、今もウイイレは一度も本体から取り出されることなくテレビの下の棚に埋もれている、はずだ。
それゆえとても思い入れがあるのだ。

それらの名前は、本名を使えなかったのか、微妙に変えられていた。思い出すままに列挙してみよう。ジダム、ベッキャム、パテストータ、ロナルド、ロベルトカウロス、リバルド、フィート、トッチィ、カンナバーレ、中田、高原などなど。なんだか微笑ましい。その中にはシェルチェンコ、ファンテルサール、スコールス、オーエンもいた。彼らを操って僕は楽しんでいたのだ。特にシェルチェンコは強く、彼がドリブルを始めると誰も追いつけなかった。ゲームでの話ですが。

それで、何となく知っているような名前が、ワールドカップの時期になるとたまに紙面に載っていたものだ。
しかし、そうした名前が、ここ数年は引退の記事に載ることが多くなった。
考えてみれば、はや10年。そろそろウイイレで活躍していた選手のモデルたちはフィールドから姿を消していくだろう。彼らの引退と期を同じくして、僕もあまりウイイレをやらなくなった。面白くなくなったわけではない。しかし、想像していた面白さがゲームの中からはあまり得られなくなったのも、事実だ。
人間の心は霞を食って生きている。
僕たちの快楽はゲームそのものから得られるわけではない。ゲームの一歩先、次こそは、こうすればクリアか、珍プレーやネ申プレーへの期待、友人の楽しそうな様子、没頭している様子、そのゲームを知っていることで得られるステータス、意外性、そのゲームが形成する世界への参入。多種多様の雑多な欲望が何層にも積み重なってゲームの快楽をもたらす。
そして、自らが満たしたいのはゲームをプレイする欲望ではなく、ゲームをしている自分(理想自我)であることに気付いた瞬間、虚無が押し寄せるのだ。
そうして過去のものとなったあのウイイレに興じていた日々が、引退のニュースのたびに心の底を疼く。あのころはいい時代だった。ウイイレのことだけ考えていればよかったのだから…。
さようなら、シェルチェンコ。
僕のウイイレの記憶とともに、彼はフィールドから去っていく。

今日つくったオムレツがとてもおいしかった。火傷までして作った甲斐があったというものだ。
どうして料理を作ってしまうのか、まだよくわからないが、たぶん現実に向かって現実逃避しているのだろう。虚構に現実逃避しようとするとかえって「現実」を直視する羽目になる。虚構に逃避してはならない、現実に逃避せよ。ジジェクから教わった僕の処世訓だ。少なくとも料理している間は、僕が学生であることも、こなすべき課題も、読みたい本も、そのた雑念をすべて忘れられるじゃないか。そういう雑念こそ虚構の住人だ。確かに現実は厳しいが、グロテスクではない。

ニコ動をみてると胸が張り裂けそうになる。いや、ほんとに。