ゴルギアス

いろいろと書こうと思っていたこともあったはずなのだが、すべて忘れた。
何も書くことがない。

僕はよくご飯をつくる。自炊するが、それはなにかやっていないとやりきれないからだ。一瞬でご飯食べて、残りの時間をどうするんだよ。料理した方が生きてる感じがするじゃないか。
最近の努力によって炊事の時間は二時間強に短縮されつつある。

それにしても、金曜日終了の喪失感はなんだか半端ないな。
平日はあんなに忙しいのに、その忙しさをぜひ休日にも分けてあげたいのに、なにもできないなんて、僕はなんて無力なのだ。

マーラー大地の歌は死への恐怖らしい。死ぬのはいや、しぬのはいや、しぬのはいやああああ、と、心の中で喘ぎながら徒然なこの世で酒におぼれていく若者の青春。
あの切ない第六楽章は、なんだか退屈に思っていたけど、そうではなくてずいぶんしっとりして心が砕け散りそうで退廃的な美しさが奏でられているのですな。最近納得できるようになった。

それでは最後に、ゴルギアスの前半のまとめをしよう。題して、ゴルギアスとは症候である。
もちろんソクラテスが途中から自説を展開し始めて、ゴルギアスは遠ざかってしまうから、症候の文脈は背景にひいてしまうけど、現代のしてんからゴルギアスを繰るならこういう考え方はアクチュアリティがあると思う。
ソクラテスはなぜゴルギアスにかみつくのか。
ソクラテスの問答は典型的な「子供のディスクール」であることを確認しよう。ただし、ソクラテスはそれを故意に演じている、つまり、かれは結論を知っており、その欺瞞のありかをも知っているのだがなにも知らない純粋素朴なふりをしていることが後でわかってくる。しかし現代のソクラテスにあってはその態度も一種の、知っている主体を演じていることになってしまうのだ。ここではプラトンの演出に乗せられることなく、冒頭部分を対話全体から切り取って、弁論術というのがいったいいかなる術なのかを整理してみよう。
一見、ソクラテスにより矛盾を衝かれ、ゴルギアスは論破されたように思える。しかし、ここで凱歌を挙げるのはゴルギアスなのだ。僕は敢えてそのように読んでしまう。