ブログはさらっと書く

日曜日よ。
この壮絶な日曜日は僕からすべてのやる気を奪い去ろうとしているようだ。

月曜日。
早く月曜日が来てほしい?
それは違う。
月曜日は月曜日で、月曜日なりの
すじのとおしかたってもんがある。

今日も早く寝たいものだが、そのまえに、まとまったものを書いておこう。

哲学と思想はどのように違うのか?
どっちも似たようなものだ。このせかいの外にいる何者かに話しかけようとしている。一つのコミュニケーションのゲームみたいなものだ。うまく伝わったと思うと、僕たちはうれしい。それだから語るのをやめることができない。
違うのは、
哲学とは普遍を語り、思想は局所を語るということだ。
哲学は何の予備知識がないものにも迫っていける。哲学とは野蛮な疑問に答えるところにある。答えるというのは、解を示すことではなくて、野蛮な疑問をさらに掻き立てるということだ。
哲学は進歩しない。哲学の辞書に進歩という言葉はない。なぜなら、私たちが答えるべき問いというのは常に同じであり、あまたの哲学もその答え方のヴァリエーションだからだ。時代が下るほど、私たちはいろんな変奏曲を知ることができるとも言えそうだけど、実は、答え方というのはそんなに多くはない。つまり、私たちは忘れっぽいのだ。一度問いにぶつかって、ここに問いがあると気が付くまでは哲学はないのも同じだ。いつも思い出し続けなければいけないほど、その問いにぶつかることは難しく、どうやってその問いにぶつかったのかは、簡単に頭から抜けていく。
思想は違う。思想は状況に依存する。思想は普遍を語らない。今、目の前にあることを語る。その場その場でうまく切り口を見つけ出していく。
思想は進歩する。過去の思想はすぐに古くなってしまう。その思想は凝り固まって、当時の状況を正確に思い浮かべることができないと容易には解凍されない。
思想とは、世界に対する参加の方法であり、その都度更新されていく。
哲学と思想はこのように水と油であるが、両者はすぐ近くにいる。哲学が思想として読まれることもあるし、思想が哲学に化けることもある。その実、どちらを選んでいるかは読者にかかるといってよい。
しかし、あえてひとつ付け加えたい。
僕は思想と哲学には互換性があるべきだと思っている、つまり、優れた思想書は哲学として読めるはずであり、優れた哲学には必ず思想が入っている。