また逢う日まで

主食・主菜・副菜とも、今日の夕飯は全部作ってみた。
そしたら、だいたい7時頃に作り始めて、調理が終わって、食べて、片つけるのにトータル3時間もかかった。食材を買いに行った時間も含めると4時間近い。毎食の料理がこんなに大変だなんて思わなかった。
生協の学食で食べたら、5分で買って席について、10分で食べ終わって外に出てしまう。この差はなんということか。
僕が料理に慣れていないことを含めても、ご飯を作るには大変なエネルギーと時間がかかることがはっきりした。そして、準備もいらず、片づけもいらない学食のなんと便利なことか。そして、現代のひとびとは食に無関心になりつつあるという指摘もたしかに少し現実味があると思われた。
それでも食材や食器や調理器具は全部整っているのである。もしこれらも全部自分でやらねばならないとしたらどうなるか。一日中食べ物のことを考えて奔走しなくてはならない。余暇なんてほとんどないだろう。原始、人間はきっと食べ物のために生きていたのであろう。それに比して、この生活は完全に技術と分業の勝利と言える。
ちなみに、作ったのはチャーハン、白菜と油揚げの煮物、茄子のおひたし。こう書くとなんか大したことないけど、大変だったんです。思った以上に。

とにかく僕はそういうわけで今日の放課後をほとんど馬の世話と料理とに費やした。気付いてみたらもう寝る時間が迫っている。一日は短い。短い一日というのは僕は嫌いなのだが。

大学生活で驚くべきことは、勉強しなくちゃいけないことがたくさんあることである。受験期に比すとも劣らない。客観的にはそうでもないのかもしれないが、心理的には課題の量は全然減っていない。もちろん課題の内容は変わったけど。それはひとえに、受験期ならば塾にかよって家でぼーっとしていてばよかったけど、今はそうもいかないからだろう。家事をしないと部屋で生活できないし、その他いろいろ、やるべきことがある。そして皮肉なことに、そういう忙しさがないと僕は耐え切れないのである。こんな部屋に一人で黙然としてのそのそ大学に行きのそのそ帰るのでは、とても心が持たない。その時間に勉強するなんて、とてもではないが、できない。
ある程度忙しくなって、その隙間に勉強時間を入れていくのは理想ではあるのだ。でもその隙間がなんだか足りない気がする。なぜだ。時間泥棒のせいか。
僕は大学生になったらもっと楽しく遊び暮らすのかと思った。とんでもない。自分でもこんなに勉強しているのは想定外だ。そしてこんなに課題が多く、授業についていくのが大変というのも想定外だ。もっと爛漫としたものではなかったのか。大学生活って。それとも僕のねじがどこか外れていて、自分で自分を追いつめているだけなのか。
そうこうしているうちに、もう23時を回る。
さよなら!
きょうの日は、さようなら!
きょうの日に、さようなら!
さよなら、さよなら、さよなら!