左京区を散歩する

昨日は良い天気だった!こんなにいい天気は京都では久しぶりだ。僕は左京区京菓子店を巡ってみた。1時間強歩いて二店舗見つけたが、入ったら買わなくちゃいけないような雰囲気だったので中に入るのは遠慮した。お土産には使えると思うが、ふだんここで買って食べることは、ないかなあ。自分一人で食べるというのもね…。

鴨川は賀茂川と高野川に分かれる。高野川の周辺はだいぶのどかな雰囲気になっている。夕闇に沈む高野川はなかなか風情があったと思われる。
なんと風情のない文章。眩暈がしますね。

昨日の朝は疲れたのか、夜更かししすぎたのか、睡魔に完敗して9時過ぎまで寝ていた。朝型にならないといけないのだが。
でも今日の朝は6時半に勝手に目が覚めた。

ヘーゲルをよんでジジェクを読んだら頭がへとへとになる。ジジェクはそれでもだいぶつかめてきたが、ヘーゲルは思ったより訳が分からない。ロジカルな文体なのに吟味すればするほど意味が剥落していく、悪魔の文章。これを訳す人は相当のど根性か、筋金入りヘーゲリアン。

東京でシュルレアリスム展があったのか…まあ、シュルレアリスムはまだ勉強不足だし、今は良い。ブルトンのナジャでも読んでから、また別の機会に見ることもできるだろう。
シュルレアリスム自体は、わからないわからないといわれながら、「わからないということはわかっている」観がある。そもそも、絵画とはなんだろう。それは世界の何らかの対象をキャンバスの上に写し取ったものなのだろうか。しかし、キャンバスの上に重ねられた絵の具の層それ自体が一つの対象として迫ってくることがありうる。そのとき私たちは絵に描かれていつものを見ているのではなく、絵を見ている(そうすると、原理的には絵を描いた絵というものも存在しそうだ。図版とか?)。
もう一つ、絵とはだれがどのように生み出すのか。もちろん絵をかく個人(複数かも)がいることは確かだが、その個人の意識や、もっと言えば理性が「これを描こう」と思って描いたのか。そうだとすると絵とは「何らかの対象(これを描こうと思ったもの)をキャンバスの上に写し取ったもの」になる。絵が絵だけで存在するということは、それを生み出した「作者author」は存在しないということになる。それを生み出す意識が存在しないということ。これは、無意識の安直な理解でもある。確かにこれはある個人が作り出したのだが、何を描いたのか、というか、それが何の絵なのか、どのような絵なのか、その絵の「意味」はそれを作り出した個人にすらわからないということだ。極端になると、そもそもそれが絵なのか、美術作品なのかすら分からなくなる。それを決めるのは読者、解釈者だ。
ここから「作者の死」まではあと一歩だ。作品を作品足らしめるのは張り巡らされた読者の意識であり、見解であり、理性である。絵を描く個人すらこの読者の網の目にからめ捕られている。作品はそのような絡み合いが生み出し、その絡み合いの構成要因のひとつになっていく。
これがシュルレアリスムの安直な解釈。
特に、「この作品を作者の統制下に置くのを嫌う」、自動筆記みたいなものは顕著な例だ、と思う。ただ、このようにあからさまに「無意識が生み出したもの」を強調することは、逆に、露骨に「あるもの」を描くことになりかねない。無意識は恣意ではない。抑圧された欲望かもしれないし、さらに手が込んで、抑圧された欲望と見せかけたい欲望、かもしれない。無意識を装うことだってできなくはないと思う。意地悪な言い方をすれば、無意識のうちに無意識を装ってしまう。それは今まで論じた「作者の死」とは正反対の方向だ。無意識の仮面をかぶることで作者が復活している。
すると逆に、いままでわかりやすかったはずの、何かを直截に描いている絵のほうが、いったいそこで何が描かれているのかわからなかくなってしまう。

一日くらいパソコンのない生活を送ってみるのもいいのかもしれない。