「私はウソツキーです」
ハイデガーの形而上学入門を持ってきていたつもりだったのに、部屋を探してもどこにもない。ということは、持ってこなかったのだろうか。論理的にはそういうことになるのだが、入学式のころまで常に持ち歩いていたので腑に落ちない。変なの。
今日は京都はいい天気。まだ洗濯物干してないけど。
昨日は哲学研究会の新歓。意外と楽しかった。
そして夜更かしした。
大学で目標を持って勉強するなんてありえないなあ。
長期休暇と思ったほうが良いよ。
それで少なくとも4年間は好きにしたらいいじゃないか。
と思えるようになりたい。
トマトジュースを飲む。食塩の味がかなりする。ちょっとしょっぱい。
最近は精神分析を知っていてとてもよかったと思う。今まで気机上の空論と思っていたけど、そんなことなかった。ただ、語れるようにはならないんだね。納得するんだけど。
今日思いついたことをメモ。
ソシュールのどこが琴線をくすぐるのか、思い出してみよう。
そう、あれだ。
「考えるためには二人でなければならない」
考えるためには言葉を使わなくてはいけない。言葉を使うとは、会話するということだ。そして、会話はいつも、ふたり。つねに、ふたり。
一人で話すことはできない、ということを、うそつきパラドックスは示している。
「私はうそつきです」
これが嘘つきのパラドックス。
私が正直なら、私はうそつき。私が嘘つきなら、私は正直。
これはそんなに特殊な状況ではない。私について何かを語ろうとするとき「私」はすぐにこのジレンマに陥る。
「私は間違いました」
間違っているなら、このセリフも間違い。
「私はダメなやつです」
本当にそう思っていたらこんなこと言えない。
「私は正しい」
と本気で言うのは無反省な人。
「私は常に正しい」
という誤り。
どうしてこうなるのか?
それはことばが語るのは常に他者についてだからだ。
自我とは他者について語られた言葉の総体だ。
鏡像とは言葉によって作られた自我の似姿だ。
鏡像を自我そのものと錯覚しなくては自我は生まれない。
鏡像段階とはそういうことだ。
きっとね!