時間割

講義は90分。午前中に1,2限、午後に3,4,5限。
月 遺伝学 線形代数 地球科学実験 同左 物理化学
火 数学Ⅱ 空き 物理学 言語認知論 空き
水 有機化学 精神分析 空き 空き 英語
木 論理学 日本の法と政治 英語 フランス語 空き
金 数学Ⅰ 空き フランス語 空き ポストゲノム科学

単位が無事取れることを願う。ほんとに。
どんな時間割を組むかは重要だけど、勉学の面からは実はそんな大事でもないと思う。時間割を組むのは机上だから、だいたい理想自我が反映される。こうでありたいと思う規範と、これはくだらないと思う規範と。だから、あえてとらなかった講義にだって意味がある。
単位は必要だけど、単位をその科目でとったからと言って何事かが身につかなければいけないというわけでもない。確かに大学を出るとき社会的に認知されるのはこの単位だけど、勉強は本当はもっと自由にやったらよいと思う。し、やるものだと思う。こういう講義をとったからって、これしか勉強しないというわけでは、もちろんない。逆に、とった講義だって、まともにやるかどうかはわかったものではない。サボるといっているのではない。自分を縛るのはよくないと思うだけ。自分は何に向いてるとか、向いてないとか、そういう認識はあまりあてにならない。
キャリアを考えて科目をとる人も結構いるみたいだけど、僕はどうしてもその気にはなれない。そうやって勉強しようとは思わない。

この大学は近くに大きな本屋がないのが、東京に長く暮らしていると、きになるなあ。吉祥寺には啓文堂ジュンク堂、リブロがあった。新宿の紀伊国屋はよく使った。お茶の水にだって丸善があった。そういう本屋を使い慣れてしまって、生協の本屋はやっぱり物足りない。大きな本屋は駅前にある。だからちょっと遠出しなくてはいけない。もちろん、大学に鉄道を使って通うならば、こんな悩みは起こらなかったはず。下宿ゆえの悩みか。

僕は京都新聞をとっているのだが、最初はうまくなじめなかった。ずっと東京新聞だったので原発の話題とかはかなり敏感に取り上げられていたのが、ここに来るとそうでもなくて、なんだか内容が薄い気がしたのだ。しかし、一週間ほど読んでみると、だんだん京都新聞が充実して見えてきた。それぞれの地域によって何に関心を持つのかは違うのだ。そして、その地域なりの世界が展開されている。

図書館で柄谷行人のなんとかという本を読む。講談社学術文庫だった。ずいぶん古いやつ。店頭にはおいてないと思う。
それを読んでいるうち、ああ、僕はこういうことが知りたくて勉強を始めたんだっけな、と懐旧の思いが湧いた。初めて読んだ本だたけど、懐かしかった。中学3年あたりで、僕は同じような空気に浸っていたような気がする。
内容ではなくて、その語り口や考え方や目指すものに、すこしほっとした。(悪魔のように頭の切れる)柄谷の本なのに…。
その空気の中に再び戻ることは今はもうできない。僕は今はもう少しコロキアルで、ある程度習得に訓練を要するものに信頼を置いている。逆に、この古き良き精神では(少なくとも僕は)どの辺で躓くだろうな、ということもかなりはっきり見えている。だから戻ることはない。というか、戻ることができない。
でも本当はこういうことをずっとやって、こういうことをずっと考えていたかったのだ。ただ、確かに、考えるためには基礎が必要だ。基礎とは「考えるための道具」の使い方のこと。道具をきちんと使えないと人間は無力なのだ。本当は道具が使えても無力なのだが、道具が使えるとすくなくとも部分的には自分の能力を過信できる。僕は驕ることを否定しない。そういう自信も大切。道具が使えないと、その程度の自信さえ持つことができない。自信を砕かれたら、考え続けることができない。
そのために僕は柄谷の世界を離れたのだ。でもこうして時々戻りたくなる。

柄谷の本に託けてもう少し。
最近、フッサールが考えたことをもっと知りたいと思うようになった。フッサールの問題意識にはきっと共感できると思う。イデーンから111年。フッサールの問題意識は乗り越えられたのか?それとも忘れ去られたのか?
フッサールの立てた問いはこうだ。学問とは何か。その基礎は何か。しかし、より具体的な形に直すなら、こうだ。サイエンスの興隆は何を意味するのか?
その点で、フッサールオルテガの問題意識には明らかな共鳴を聴くことができる。その音色はソシュールフロイトウィトゲンシュタインとも響き合っている(あるいは、クレンペラーも?)。
その問題意識は特に戦後のフランス人文界で爛熟した。そして、そしてどうなったんだろう?その結果は「知の欺瞞」に過ぎなかったのだろうか。あるいはそうなのかもしれない。
しかしひとつ確からしいのは、それは知識の問題ではないということだ。学際になればなるほどこの問題は焦点を結ばなくなるような気がする。しかしもちろん、一つのことを徹底しても職人になってしまう。それは哲学ではないと思う。結局、僕の出せる答えはこうだ、つまり、精一杯デタラメに勉強するのだ。

それにしても、どうして日本語話者で、日本で育った僕がこんなにカタカナの人物についてばかり語らなくてはいけないのか。これはこれで大きな問題なのです。