夢からの逃避行

冷凍したご飯を解凍してお茶漬けを作ったらすごく不味かった。茶漬けなんて料理というよりインスタントコーヒーに近いくらいに思っていたけど、あんまり乱暴なことをしてはいけないらしい。反省。

自転車で動くのはなんだか慣れない。到着するのが早すぎる気がする。歩いたほうが途中でいろいろ頭が冷やせていいのではないか。もちろんそんな悠長なことは言っていられないが。

教科書をたくさん買う。新しいことが多すぎてまだきちんと適応できていない。これからの予定を頻繁に塗りなおすほど僕は絶望的な気分になるようだ。哲学的には、未来と現在が密接につながっているということがよくわかる。そして未来は過去とつながっている。

どの授業をとるかですごく迷う。シラバスの裏を読むので変に頭を使う。そして、使った割にずいぶん思ってたのと違う。行かないつもりの講義が良かったり、出るつもりの講義が性に合わなかったり。それで毎日時間割を書き換えている。

勉強がさっぱり軌道に乗らないが、この半年何をするのかは決まった。きっと、数学をするのだ。数学と最後の干戈を交える時だ。そして最後には数学と仲直りしたい。

トロツキーのなんとか革命論を読む。ついでにフロイトも読む。というか、目を通す。が、何を言っているのかよくわからない。最近なにかとトロツキーが引っ掛かる。レーニンでもスターリンでもなく。

それでは最後に、死の恐怖について所感を述べよう。
一人暮らしをすると、決まって死の恐怖に襲われる時がある。夜ではない。就寝時にはもう脳みそがへとへとになっていて、デリケートな問題を思考する余裕がないようだ。暗闇ではなく、朝日が怖い(朝刊が怖いみたいだ…)。朝起きるとこの自分という存在がなんと脆いものか愕然とする。自分を守ってくれるものが何もなくて、自我が丸裸にされる感じ。それで、不安と吐き気に襲われる。こまったもんだ。
さて、どうしてこのようなことが起こるのか。鍵は夢にあると思われる。羅漢は言った。過酷な現実界から逃避するために夢を見るのではない、夢に横溢するなまなましい欲望から逃避するために現実に戻るのだ、と。死んだわが子が出てくる夢をフロイトは紹介している。息子の通夜か何かで父親がうとうとしていると、夢に息子が出てきて、こう言う。どうして僕が燃えて(火傷をして)いることに気付いてくれないの?父は目を覚ます。すると、燭台が遺体の上に倒れていた。
夢は欲望を忠実に反映する。部屋に煙が立ち込めはじめ、父は無意識では何かが燃えていることに気付く。当然、息子になにかよからぬことが起こっている可能性がある。しかし父は目覚めたくなかったので、代わりに夢の中に息子を登場させた。夢の中で息子が助けを求め、それに応えることで、実際に起きて火を消さなくても自分では息子を助けたつもりになることができる。では、なぜこんな夢を見るのか。それは起きたくなかったからである。無意識の機構が意識を騙そうとしたのだ。でもなぜ?それは父が「息子が死んでよかった」と思っていたからだ。息子が死体でいることに父は安どしている。その死体が焼けるのをわざわざ起きて止めるのは息子の死を願っていた無意識と背馳する。
この夢をみたことで父の意識は自らの欲望に気づいた。父は愕然とし、自分が息子の死を欲したことに耐え切れなくなり、夢の世界にいることができずに現実へと逃避した。そこでは息子にかかった火を消すことで、失ったわが子を悲しむ父親であり続けることができる。こうして人間は夢から覚めるのだ(夢から覚めた夢を見始めたら、どうなるんだろう)。

僕もきっと夜は夢を見ているのだ。そして、昼間夢中になっている授業選びやそのた諸々の意識、自分がこの世界で一人の人間として生きることを基礎づけている意識、教授や友人からどのように思われたいかという意識、つまりは自我理想、それらは一種の仮面である。思想とは意識を欺く技術である。人間は自らを欺瞞し続けなければ社会生活を営めない、つまり、覚醒して(意識が優位に立って)いることができない。それがこの世界で生きるということであるに違いない。夢の中で、僕はこの欺瞞を暴露してリビドーにあふれた胎児的うたかたの世界を彷徨い、それに耐え切れなくなって目覚めるのだ。すると、僕を守っていたはずの仮面がきれいさっぱり取れてしまい、一つの個体としての、一匹の生物としてのヒトがそこに取り残される。
しかし、それがこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。家庭の中にいたときはそこまで想像力を働かせることができなかった。社会に出ることは、とりもなおさず精神病に罹患するということだったのだ。