専門化する専門家について

ガイダンスがあって、いきなり8日から授業が始まる。
本学は自由に受ける講義を選択することが可能である。学部による縛りがあると思いきや、簡単な手続きによって越境が可能である。縛られるとすればせいぜい語学でしかも第二外国語は選択と考えれば大学から強要されるのは英語のみである。ちなみに週二時間だ。専門として卒業までに既定の単位は積まなくてはいけないが、それも厳しいものではない。講義の取り方によっていかようにもなる類のものだ。
そういうわけで、非常に高い自由度を生かして、時間割の組み方にもそれなりの個性を出すことができる。
僕はこのままだときつい講義をとりすぎて期末が大変なことになり、下手を打てば単位が取れなくなるかもしれない。でもまあ、いいじゃないか。ぴかぴかでぺーぺーの一年生なんだから。そうやって挫折を繰り返して成長するんだ。
僕のようなケースは稀ではないようだ。最初はやはり気張るものらしい。
さて、自由にとることはできるとは言いながら、全部理系だけとか、文系だけとかすることはできない。一回生はだいたい半々でとらなくてはいけない。これが教養を兼ねているようだ。
それなりに意欲のある人でも、気合をいれるのは専門科目、という人は結構多い。そうすると専門以外の講義は余計なものになる。それはできるだけ軽いものにして、単位をかすめ取りたいというのは、不真面目でなくても多くの人が思っているようで、そうするともう教養科目なんていうのは形骸化している。
一方、全学部ガイダンスでも、入学式での総長の言葉も、現代の専門科目のありに多岐にわたる複雑化、そして極度の専門化を指摘し、幅広い視点で学問を学ぶことを強調していた。つまり、京大の教育方針は完全に空回りしている。上から何を押し付けようと思っても無駄なのだ。当然のことだと思う。新入生にはどの講義が単位の取得が簡単で、どの講義が大変かを網羅した冊子が出回っている。自由を与えられた新入生はもちろんこの冊子の“奴隷”になる。そしておすすめ講義には長蛇の列ができ、定員オーバーでくじ引き。これが実態だ。
しかし、どうして大学側と学生側とにこんなにも意識の差があるのか。
それは、大学側の「幅広い視点」とか「学際」とかいうことばの空疎を感じ取っているからだ。幅広い視点などと言いながら、ちょっと違うものに手を伸ばそうものなら専門知識の集中砲火を受ける。そして「こんな基礎的なものも知らずによく勉強を始めたもんだ」という侮蔑的な視線とともに単位を落とされる。それが見え隠れしている。
教授だって所詮は専門家だ。自分の専門を極めることによって今の地位を得た。中途半端な知識が評価されないことは骨身にしみているはずだ。そして今の地位を手に入れ、そこにどっかと腰を下ろして窓の外に広がる現代の様相を眺めながらオルテガの顰に倣って、ふむ、この複雑怪奇な現状は何か。専門バカの蔓延り様たるや如何。知の総合化だ、学際だ、とのたまっているのである。僕にはそう思えてならない。そんな言葉を本気にするような学生がこの大学に叢生しているようでは、それこそ日本の将来が危ぶまれる。
かっこいいことを言うなら、きちんと現代の諸相を把握する者はその問題意識を追究する。その問題の専門家になるということが、現代の学問の枠組みにおける一つの分野に集中することであれば、そうする。その問題の専門家になることが学問の枠組みとかそういうのとは関係なしにその問題に答えるための知識や考え方を探すことを意味するなら、そうする。後者を人は学際といい、前者を蛸壺というのかもしれないが、そうではない。どちらも専門家なのだ。

オルテガがいったい何に警鐘を鳴らしたのかについてだけは一言触れておこう。彼は現代の学問の複雑化による混乱を指摘したのではない。彼は専門化した専門家(具体的には科学者だ)が複雑怪奇な現状を憂うことに警鐘を鳴らした。人々が彼らの憂いに耳を傾けるとき、世界は大衆、つまり専門化した専門家の集団が支配する。