言葉の核

最近更新が滞ってしまった。
ただ、ほとんどtwitterのような備忘録で埋め尽くされていた前のスタイルが良いわけではない。あれはあれで、自分の正直な感想を吐露したつもりのはずだった。でもその定型、というか、書き込まれている感情の幅の狭さに閉口しないわけでもない。
言葉に表すというのは、確かに、こころというかあたまというか、その中にある言いたいことの核みたいなものを実体化する営みであるのかもしれない。純粋な構造主義者だったかつての僕はこれをソシュール以前の謬見と切って捨てたのかもしれないが、そうは思えなくなった。言葉が当てはまる「もと」が不変の実体としてあるという発想が間違っているだけで、言葉があてがわれるのを求める何らかの情報、わだかまり、断層が自分の中にあるというのは僕の実感が支持する。それらは明確な形をとっているのではない。言葉を欲望する動機、とでもいうのが正しい。
谷川俊太郎、二十億光年の孤独を衝動買いしてしまった。僕は影響されやすいたちだ。これを描いた時の谷川は僕と同じか、それより少し若い。そして、僕もまたこんな風に、自分の内側にある感覚、言葉の「核」にたいして言葉をあてがってみたい。
読んでいて印象的だったのは、詩はラジオを組み立てるように作る(作った)という谷川のことば。詩とは組み立てられた一つの実体なのだ。そこではことばの歯車が相互に噛み合って、きこきこと動いて、一つの詩という箱の中で完結したからくりを作っている。それらはきっと慎重に、丁寧に作られている。
そういわれると、僕にもなんだか詩作のとっかかりがつかめたような気がしてしまう。

ほんとうはここで文章を切り上げるべきなんだろうが、単位制についてひとつ。
僕のクラスの試験対策委員が前期の取得単位を集計しようと提案した。すでにネットにフォームを上げて、そこに全員が書き込めばよいところまで進んでいた。どうやってそういうのを作れるのか、ある程度自分でHTMLを書くのか、僕にはよくわからないけどそれなりに手間暇はかかったに違いない。
彼を突き動かしたのはなんだったんだろう。
僕たちは成績についてそれが集計され集団のなかでの自分の位置がはっきりすることを当然のことだとみなしていて、そこに疑問を挿まない。しけたいは当たり前のことをやったに過ぎない。何も言わなくてもその趣旨は全員が理解するということは暗黙の前提になっていた。
僕の所属する大学の農学部のあるクラスではそうだった。これは一種の報告に過ぎない。よいともわるいとも言うつもりはない。
成績についての数値はそのように使うものなのだ。これは一種の条件反射なのだ。小学校から高校まで、つねにそのようにして勉強の成果は算定された。大学で、そうではないという理由があろうか?

でも、これはいい機会だった。僕は、少なくとも小学校のころはペーパーテストに対してかなりの適性を示していたはずなのに、いつの間にかペーパーテスト不適応になってしまった。周りの人はみんな要領よく課題をこなしていくように見える。僕のやり方はとても不器用な気がする。
そして、自分の勉強について何らかの数値がついて、それがほかの人同士で比較されるというのが、なんだか僕の学習意欲を深いところで損なうような気がしてくる。これは僕が逃げているのだろうか。この社会のルールから。
それでとにかく、僕は別に求められてもいないのに取得単位数を算定してクラスの平均を出すなんてことはしなくてもいいように思われた。これではいけないという何かの動員に心の中で火が付いた。それが結局、単位制について、評定について、ある程度原理的な考察をする契機になった。
僕はこれはいいことだったと思う。
なお、考察の具体的な内容に関しては、稿を改めて論じたい。