立チ上ガレ、少年少女

さっぱり更新していないが、はたして、ここまで更新しないとブログの意味がるんかいなと疑ってしまう。
最近僕の前のブログを読み直すのにはまってしまった。ぼくはまあなんと面白いことを書いているのだ。ダメなエントリーもあるが、切れ味鋭いエッセーも多数ある。後から読む分には、このくらいまとまったものを書いている方が面白い。どうでもいいような日々の感想なんて、読んでも、ああ、こんなこともあったなくらいで、備忘録的にしか使えないではないか。
あまりに面白かったので、受験に関することについて書いたエッセーをまとめたりしてみる。僕が受験に対してどんなふうに考えてきたのかわかる。並べてみると、変遷はあるものの主張はだいたい一貫している気もする。
僕は受験とはあまり縁のない中学・高校生活を送った。これは誠に幸せなことであった。そのことをしみじみ感じる。

最近突発的に、原発についての報道なり運動なりを目にするたびに、ずれてるなあと思う。そもそも国家とは何か、なんで国家なる組織を作り、国家なるものに所属しているのか。なるほど人間には全人格没入的に依存する組織なるものを必要とするとしても、まずは生命安全そして秩序と文化とを守り、自らの生活をましなものにするために国家をつくるんである。ここは譲れない。秩序紊乱の無法地帯では読書やマンガに没頭したり、料理作ったり絵をかいたり友達と喫茶店で議論したりスポーツに興じたり演劇を見たり脚本を書いたりする余裕がないではないか。
国家の三要素は人、土地、主権である。人のいない場所に国家はならず、海洋や宇宙に人は住む能はず、そして組織としての意思の一致に至らぬ人々に国家はない。人あり、人の住む生活基盤(土地)あり、そしてその人々全員の意思決定(を行う仕組み)があって
ところが福島原発の事故はこのような国家間に照らしてひどい異常事態である。国家的施策の重大な過失で、国家の一部の土地に人が住めなくなったのである。このような事態を惹起する国家はもはや国家の体をなしていない。土地を放射能で汚染し、生活基盤を根こそぎにされるために(国籍としての)日本人であるのではない。組織が拡大しすぎると、一部のヘゲモニーを握った集団に組織が私的に利用されることがありうる。どのような集団が日本政府の意思決定を行っているのかは措いて、原発の被害地(とその住民)は日本という国家(という名の私的な組織)に私的に利用され、その福利を徹底的に破壊されたのである。国家の構成員のすべてに対してその生命安全を保障しようとするのが公ということである。その公に含まれないような構成員というのが定義矛盾であるゆえに、たとえどれだけの多数派の意志であったとしても、少数派を国家の構成員とは(事実上)みなさなかったのならそれは私事としかいえないのである。
こう反対があるかもしれない。公とはいえ、構成員くまなく全員の利益になるような政策はありえない。その通りだ、しかし、その利益不利益には程度があり、その程度についての合意もあってはじめて利益に傾斜のついた政策も行い得る。はじめから一部の構成員にたいして国家の三要素に悖るほどの根本的な「不利益」を与えるような(肉を切らせて骨を断つ的な)政策は、骨を断つ事で利益を得る集団(多数派であれ、少数派であれ)によって斬られる集団がその構成員である資格を侵害されているがゆえに行いえない。
最近井上ひさしの『吉里吉里人』を読んで感銘を受けた。福島(の一部の市町村)は、その構成員の衣食住についてできるだけ自給自足できる体制を整えたうえで、日本政府から分離独立することを本気で考えた方がいいと思う。別に日本人をやめるわけではない。ハンチントンは日本は一文明一国家の特殊な文明圏であると言っている。それが一文明に複数の国家の存立する普通の文明圏になるだけである。
生活の質はいまよりぐっと落ちるかもしれない。だがどの程度の質を最低限保証されるべきものとするかどうかである。大量の電気を食って物質文明を謳歌することさえ放棄すれば、なんとかなるはずだ。それとも、日本政府によって生活基盤を蹂躙されたことについて、泣き寝入りをするか、どちらか、といった話ではないのか。きっとルソーもロックも福島独立案に賛成するに違いないと思う(というか、彼らの方から福島独立案を提起してくるのではないか)。もしそうなったら、ぼくもできるだけ支援したい。
と、こういうふうな話になるのが自然ではあるまいか。震災直後、松本復興相が威圧的な態度で市長に臨んだとき、市長は「日本政府に所属していたオレたちは間違ってた。この組織に未来はないぞ」という囁きがよぎらなかったであろうか。彼らと対等に話をつけるために、独立はひとつの方法である。
輪をかけてばかばかしいと思うのは、そうやって日本人が住んでいるところについては粗雑な注意しか払わない人々が、日本人が住んでもいない尖閣竹島の陣取り合戦に血道を上げる(ふりをしている)ことである。実際は、あれは、パフォーマンスなんである。中国にしても、韓国にしても、日本にしても。本気であの島がとられると思ったら、日本はアメリカに「ちょっとシメてやってもらえませんか」というだけでいい。その代り、あれだけの思いやり予算を計上し、普天間基地もとりあえず据え置いて、オスプレイまで飛ばさしてやってるじゃありませんか。ここはひとつガツンとやってくれなきゃ示しがつきませんぜ。
問題が米中問題に発展しない限り、どちらも本気ではない。「いざこざが起こってほしい」と思っているだけである。福島について語るのは心苦しいが、中韓を罵倒するのはカラオケよりも爽快だ。相手が日本政府の構成員でない上に、そもそも問題自体が形骸化していて、自分の都合に合わせて好きなように料理できるからである。京都市市議会議員選挙でも、立候補者が突然尖閣の問題に言及し始めた。京都市政と数百キロ離れた海上無人島にどれだけの関係があるのかよくわからないが、これで気炎を上げれば支持が上がるだろうという打算が働いているのは明々白々である。それは韓国政府だって同じはずである。
こういう現象をみるたびに、ずれてるなあと思う。
一人くらい、尖閣竹島がどうかしたんかい!自若として新型ヘリコプターのの飛行訓練をしている米軍を見習わんか、とか放言する政治家がおらんものか。

追記
今さら『尖閣日米安保を適用と中国に伝えた』とアメリカが公表。中国は『リップサービスにすぎない』と指摘。

笑えない冗談、じゃないよ。